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映画『ハムネット』──舞台に宿る喪失と癒やし

  • 2026.4.14
©2025 FOCUS FEATURES LLC.

映画『ノマドランド』でアカデミー賞最優秀監督賞と作品賞を受賞した監督クロエ・ジャオが、評価が分かれた『エターナルズ』の闇を抜け、新作『ハムネット』とともに光の舞台へと戻ってきた。

今回、彼女がプロデューサーのスティーブン・スピルバーグにより託されたのは、北アイルランドの作家マギー・オファーレルの小説『ハムネット』の映画化。この話題作は、ウィリアム・シェイクスピアと妻アグネス、長男ハムネットら家族の関係を虚実織り交ぜて描き、マックス・リヒターの名旋律とともに愛と死の苦しみから芸術が生まれる瞬間を浮かび上げる。シェイクスピア研究者の北村紗衣教授が語る映画『ハムネット』の世界とは?

──マギー・オファーレルは、あまり語られることがないシェイクスピアの家庭生活やペストにより没した息子のことを書きたいと長いあいだ温めてきたと。

実はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』にすでにシェイクスピアと息子ハムネットの話があるんです。図書館で文学談議をするところで、『ハムレット』を通して『ユリシーズ』の擬似的な父と息子の話とシェイクスピアの父子関係が結びつけられています。またジョイスの『ユリシーズ』は男性の視点からの語りが多い小説です。北アイルランド出身のオファーレルは女性作家として母親の視点も入れながら、『ユリシーズ』の書き方を裏返しているように感じました。

──家族ものが大好きなスピルバーグが監督として白羽の矢を立てたのはクロエ・ジャオ。彼女は本作を作る以前にとらわれていた自身の深い喪失感を夫婦に重ねたと言っていました。

監督のクロエ・ジャオが現代的視点から撮る人だからでしょうけれど、時代劇らしくないところも多く、非常に現代の家族ドラマ的だという印象を受けました。よく昔の人は子だくさんで、たとえ子が死んでも大して打撃を受けなかったはずだといわれますが、そんなことはなかったと思うんです。昔の記録にも亡くなった子どものためにミサをあげてほしいというようなものはあります。この映画は子どもの死亡率が高かった時代を現代人にわかりやすく、感情を揺さぶるようにうまく描いています。

──この息子ハムネットと戯曲『ハムレット』の関係は、完全なるフィクションなのでしょうか。

そもそもハムレットという王子様の物語はバイキングの伝説みたいなものが原作で、監督ロバート・エガースがその原作を『ノースマン 導かれし復讐者』というタイトルで映画化しています。原作つきなので、そこまで本人の家庭生活に深い関係はないように思います。

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❝舞台の背景に登場する森は、失われつつある自然が、芸術の力によって都市にいまひとたび出現するという演出でしょう❞

──北村教授は、当時の女性がシェイクスピア劇をどのように受容していたかを研究されています。本作では喪失に沈む妻アグネスと芝居の関係が描かれていますが、そうした記録は残っているのでしょうか。

芝居に癒やしを感じた人はいたかもしれませんが、それを書き留めるようなことはあまりなかったようです。ただ、癒やしといえば、それこそ『イリアス』や『オデュッセイア』は戦争で苦しんだ人たちを癒やすため語られたという考えもあるくらいで、人類史が始まって以来ずっと物語は癒やしをもたらすものだったのかもしれません。そして若干ホラーじみた『ハムレット』に癒やしの効果があるという『ハムネット』には、『ドラキュラ』をはじめ、昔からホラーやファンタジー、おとぎばなしが好きなアイルランド文学の影響を強く感じました。

──シェイクスピアの妻アグネスは森で生まれ、村人から魔女と呼ばれる女性という大胆な設定は何か由来があるのでしょうか。

アグネスの造形は実はそれほど唐突ではないんです。シェイクスピアの作品には森を舞台に妖精が出てくるとか、『マクベス』では荒地に魔女が出てくるとか、自然界に何か自分たちが知らないものがいるといった世界観で描かれているんです。

──なるほど、シェイクスピアが魔女アグネスに惹かれるのは理にかなっていたんですね。

近世ごろからイギリスの森林面積は激減します。映画の中で、グローブ座の『ハムレット』を上演すると、舞台の背景に都市にはもうない森が登場します。それは失われつつある自然が、芸術の力によって都市にいまひとたび出現するという演出でしょう。アグネスが薬草を集める魔法同様、グローブ座で上演される芝居もまた魔法です。田舎の魔法と都会の魔法が出合うという美しい仕かけですね。

『ハムネット』のグローブ座は張り出し舞台がなく、背景などが極めて現代的に作られています。そこに現れるシェイクスピア自ら演じるハムレットの父の亡霊も魔法使いのような役割を果たしています。

──魔法を操る二人の配役はいかがでしたか。

アイルランド人の主演ジェシー・バックリーとポール・メスカル、演技がとにかく素晴らしかったです。加えて、ハムネット役の子役と舞台で『ハムレット』を演じる役者には実の兄弟(弟のジャコビ・ジュープと兄のノア)を起用しています。

本来、芝居の主人公ハムレットは一座の看板スターが演じるはずなので、もう少し年上のはずですが、映画ではハムネットが生きていたらこんなだったろうとアグネスが感情移入する見事なキャスティングになっています。試写室であんなに大勢の人が泣いている映画は初めてでした。シェイクスピアものは魔改造された作品がたくさんありますが、『ハムネット』は史料がない分、想像を自由に膨らませた意欲的でとても面白い作品でした。

▶1580年イギリスの小さな村。ラテン語教師ウィリアム・シェイクスピアは、森を愛するアグネスと出会う。互いに惹かれ合い、3人の子を授かるが、ウィリアムは遠く離れたロンドンで演劇のキャリアを模索。アグネスは子どもたちを守り育てるなか、一家に大きな不幸と試練が訪れることになる。4/10〜、全国公開。

GION (SAE KITAMURA).

北村紗衣(SAE KITAMURA): 1983年、北海道士別市生まれ。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。東京大学の表象文化論にて学士号・修士号を取得後、2013年にキングス・カレッジ・ロンドンにて博士号取得。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評、舞台芸術史。著書に『学校では教えてくれないシェイクスピア』(朝日出版社)、『批評の教室』(ちくま新書)など多数。

Realization: Mina Oba From Harper's BAZAAR May 2026 Issue

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