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剃刀と浪漫/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙 #19

  • 2026.9.25

毎朝、父が顎に滑らせる剃刀が、幼い私の目には大人の象徴として映っていた。頬を覆うシェービングフォームと、ジョリジョリという小気味よい音。父が洗面台で髭を剃る姿に、子供ながら浪漫を感じた。

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ある日、私は鏡越しの自分を見て一つの願望を抱く。父が愛用するスプレー缶を試しに押してみると、生クリームのようなきめ細かな泡がたっぷりと吹き出した。わあ、大人。すぐさま顔に撫でつけると、朝の身支度をする父の粉っぽいメントールの香りが鼻を抜けた。

禁断の魅力を放つ剃刀に、子供の好奇心は抗えない。初めて手にする刃物の光を、思わず自分の顎に当ててみる。父の真似をして刃を引いた瞬間、ザクッと肌が切れた感触が走った。

みるみる赤く染まる泡と、遅れてやってきた新鮮な痛みに驚き、私は思い切り泣いた。今思えば当然のことだった。つるつるの肌に剃刀を当てたところで、刈り取れる髭がないのだから。

志賀直哉の『剃刀』を読むと、あの頃に吸い寄せられた刃の引力が蘇る。生まれてから一度も客の肌を傷つけたことのない理髪師が、ある若者の喉を傷つけてしまう。そこから彼のなかにあったものが、剃刀をきっかけに露わになっていく。

引用----

「 ……刃がチョッとひっかかる。若者の咽がピクッと動いた。彼は頭の先から足の爪先まで何か早いものに通り抜けられたように感じた。(中略)

傷は五分程もない。彼はただそれを見詰めて立った。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上って来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上って来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一ト筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起った。」

――「剃刀」『志賀直哉. 和解・小僧の神様 ほか十三編 』(志賀直哉/講談社)より

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緊張が途切れることのない怒涛の描写に、禁忌めいた清々しささえ感じる。子供の頃、剃刀に見たのは危うい美しさだった。肌を傷つけるほど鋭いのに、父の顎を滑らかにしてしまう。傷つけるものと整えるものが、同じ刃の上にあった。

引用----

「総ての運動は停止した。総ての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷やかにこの光景を眺めていた。」

――「剃刀」『志賀直哉. 和解・小僧の神様 ほか十三編 』(志賀直哉/講談社)より

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恐ろしく美しい文末である。剃刀だけではなく、鏡もまた冷たい光を放ちながら、そこにいる人間を眺めているように思える。熱に浮かされ、欲求に揺れる理髪師と、何も語らずにその姿を映す鏡。冷たいものがそこにあるからこそ、人間の内側にある熱が際立つ。読んでいる私まで、その冷たい視線に見られているような気がした。古傷が痛む錯覚がして、無意識に顎を撫ぜていた。

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