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フィンガー5から極貧生活へ!現在の晃さんが語る、電気屋の営業マンへの転身物語【晃さんのターニングポイント#4】

  • 2026.1.29

フィンガー5から極貧生活へ!現在の晃さんが語る、電気屋の営業マンへの転身物語【晃さんのターニングポイント#4】

「フィンガー5」のあの大ヒット曲、今でもふと口ずさんでいませんか? 70年代に日本中を熱狂させたスーパーアイドル、フィンガー5。夢中になったあの頃を思い出しますね——。時を経て、メインボーカル 晃(あきら)さんに、当時の熱狂、家族グループとしての葛藤、そして現在の音楽活動までを語っていただきました。第4回、フィンガー5をやめて極限状況が訪れます。

電気屋の営業マンに転職したけれど、大ピンチ!家賃も電気代も払えない!

——フィンガー5としての活動を止められたとき、晃さんは何歳でしたか?

19歳かな。それまで芸能界しか知らなかったボクが、電気屋さんで営業をすることになったんです。でも営業の知識なんて全くないでしょ。だから全然売れない。

売り上げがないから、お金もろくにもらえなくて家賃が払えない。電気代が払えなくて電気が止まって、この後、水道が止まったら死んじゃうよみたいなときに、たまたま沖縄出身の先輩が家に呼んでくれたんです。

その当時、ボクはごはんもろくに食べてないからガリガリにヤセていて、「ちょっとおまえ、ごはん食べにこい」と声かけてくれた。その先輩がね、言うんです。

「おまえはずっと芸能人やっていて、全く違う仕事をするのは大変だと思う。でもこうなったら、開き直ったほうがいい」「おまえはオレたちが持っていないものを持っている」って、ヒントをくれた。「歌が得意なんだから、それを営業の武器にしろ」

——歌を武器にですか?

「何、言ってるんだ⁉」って思いますよね。ボクもそう思った(笑)。でも「まあ、いいや。とりあえずやってみるわ」。

8トラックカセットのカラオケを持っていって、玄関の前で「ヘーイヘイヘイ、ヘーヘイ♪」って歌ったのよ。で、「ちょっと、うるさいじゃない」と住んでいる人が玄関のドアを開けてくれるわけ。

——みなさん驚きますよね。

そうそう。それで「あれ、もしかして歌手のアキラ? 入って入って~」と家の中に入れてくれるの。それで「ボクは今、こういう仕事をしていて、これを売らなくちゃいけないんです」と話すと「そうか、じゃあ買ってあげるよ」となって、ラッキー!

一時期、新人で営業成績トップをとるほど、売れました。営業のテクニックなんてないし、電気屋としての技術もなかったのにね。あの先輩がいいこと言ってくれたから、だよね。

キャベツにマヨネーズをつけて食べる極貧状態! 困っているときに、必ず助けてくれる人が現れる

——「トップスターだったのに、玄関先で歌うのはちょっと恥ずかしい」と思ったりは?

いや、それどころじゃないもん。極限状態だったからさ。冷蔵庫開けても中に入っているのはキャベツだけ。それにマヨネーズかけて食べるような生活だったから。うん、もう底辺中の底辺だったから、開き直るしかなかった。

——晃さんにそんな時代があったなんて、驚きです。厳しい状況の中で、心が折れたりする瞬間は?

折れましたよ! でも底辺まで来たら、もうあとは上がるしかないわけでしょ。職場の先輩に殴られたこともあるけれど、殴り返したりはしなかった。

そのときもなぜ殴られたのか、わからないんだよね。伝票の書き方とか何かボクが間違ったことをしたのかもしれないし、たまたま先輩の気に障るようなことがあったのかもしれないけど、理由は全然わからない。でもケンカはしない。ボク、力ないしね(笑)。

「ケンカするとスッキリするかもしらんけど、ガマンするエネルギーのほうが強いんだよ」「どんなにボコボコにされても、目だけは絶対死ぬな」と、うちのとおやじから言われていたから、それだけは守っていたね。

極端なんだよね、ボクって。でもね、困ったときに、必ず助けてくれる人が現れるんですよ。ガリガリにやせ細っていたときに「開き直れ」ってごはん食べさせてくれた沖縄の人もそうだし、歌が売れないから沖縄に帰ろうって思っていたときに出会ったディレクターもそう。彼はボクに歌い方の神髄を教えてくれたし、ありがたいよね。

「どうせ努力しなければいけないなら、 好きなことをしよう」と音楽の世界へ

——電気屋さんでのお仕事はどれぐらい続けられたのですか?

電気屋のセールスマンは2年間。その後、兄の経営するスナック勤めを経て、不動産会社の営業マンをやったのが15年ぐらいかな。フィンガー5の活動を止めたとはいえ、すっきり歌の仕事は止められなかったので、最初の頃はうだうだとやってたんだけど……。途中から営業の仕事も楽しくなっちゃって。おもしろい先輩もいたし、バブルの後半ぐらいにもかかっていたから、時代もよかった。

——15年も営業を続けられたのは、やはり向いている部分もあったのでしょうね。その頃、晃さんが仕事で大切にしていたことは?

自分がしてもらって楽しいと思ったことを後輩にもしよう、ということ。いいものは下に流す、悪いものは流さない。自分がされてイヤだなって思ったことは、絶対にしない。歌であろうと、営業であろうと、そのあたりの基本はいっしょ。

——営業マンとして充実した生活を送っていた晃さんに、また大きな転機が訪れます。

売り上げもあったし、主任になって部下もいたのに、突然、会社の方針で設計に異動になったんです。でも設計の知識なんてない。「ここでまたゼロからやるのか」って少しガッカリしてたときに、たまたま他部署の人と居酒屋で飲んだの。そこで会社を辞める、辞めないっていう話になった。

そうしたら相手がね、「晃さんはいいじゃないですか。歌があるんだから」と。「設計をゼロからやるんだったら、歌手としてまたゼロから始めればいいじゃないか」って言うわけ。

——またいい言葉をくださる人がいらしたんですね。

それでボクも、そっかー。設計も歌もゼロからだから、どっちも努力が必要なのは変わらない。それだったら本当に好きなことで努力しようと。その代わり、二足のわらじは絶対はかないと決めた。

音楽でやっていくのだったら、音楽だけをやる。これはボクの持論なんだけど、音楽でやっていくなら、お金をもらって歌わないとダメ。だから会社はきっぱり辞めて、貧乏でもいい、苦労してもいい、音楽の仕事なら何でも受けようと思った。

でも最初はホントに大変だったよ。ボクがまた音楽をやるっていうことをみんな知らないから、自分で売り込みにいったり、知り合いに仕事をもらったり。またここから苦労が始まるんです(笑)。

晃さんのターニングポイント④
「音楽でやっていくのだったら、音楽だけをやる。だから会社はきっぱり辞めて、貧乏でもいい、苦労してもいい、音楽の仕事なら何でも受けようと思った」

晃さん Profile

あきら●1961年5月9日生まれ。1969年沖縄から上京。1970年兄弟5人“ベイビーブラザース”でデビュー。その後“フィンガー5”に改名。1973年、『個人授業』が爆発的な大ヒットとなり、レコードセールス145万枚突破。『恋のダイヤル6700』『学園天国』と3曲続けて100万枚突破のミリオンセールスを記録し一世を風靡する。その後メンバーの入れ替えやグループの解散等で芸能活動を休止。サラリーマンとして会社勤めの経験を経て2002年より音楽活動を本格的に再開。定期的なライブ活動のほか、TV、ラジオ出演、『夢スター歌謡祭 春・秋』コンサート全国ツアー出演中。

撮影/柴田和宣

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