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「本当は沢田をいれたくなかった…」その理由とは!?ザ・タイガース結成までの意外な物語【79歳・瞳みのるさんのターニングポイント#1】

  • 2026.1.17

「本当は沢田をいれたくなかった…」その理由とは!?ザ・タイガース結成までの意外な物語【79歳・瞳みのるさんのターニングポイント#1】

あの時代を知る人なら、きっと胸が熱くなる。グループサウンズの黄金期を駆け抜けた「ザ・タイガース」。その中で、仲間をまとめ、前へ前へと歩いてきたのが、瞳みのるさんでした。解散後、彼が選んだのは音楽とは異なる道——。いくつもの決断が、瞳さんの人生を形づくっています。第1回は、すべての始まりとなった、ザ・タイガース結成前夜からお話を伺います。

瞳みのるさん Profile

瞳みのる●ひとみ・みのる
1946年、京都府生まれ。ザ・タイガースのドラマーとして67年にデビュー。71年のグループ解散後は、高校復学を経て慶應義塾大学文学部中国文学科へ。修士課程へ進み、教員免許を取得する。その後、慶應義塾高等学校教諭として中国語・漢文を担当し、2010年に退職。11年からはミュージシャンとしての活動を再開し、瞳みのる&二十二世紀バンドなどで精力的に活動中。
瞳みのるオフィシャルサイト
瞳みのるオフィシャルブログ

新聞配達をしていた、中学生のころ

——メンバー5人全員が京都生まれの「ザ・タイガース」。瞳さんは離れもあるような街中のお屋敷で、乳母日傘の幼少期を過ごされたと伺っています。

僕が生まれた頃は父の洋傘問屋の商売がうまくいっていて、体が丈夫でなかった母が僕のために乳母を雇っていたんです。

その母が、僕が2歳のときに30歳の若さで亡くなってからも、なついていた乳母のおかげで寂しさを感じずに育ちました。実は、この乳母が僕の「ピー」というニックネームの名付け親。キューピー人形みたいに目が大きくて、頭が大きいから、だったらしいです。

でも、小学校に上がったころから父の商売が傾き始めて、乳母がいなくなって、父の再婚でステップマザー(継母)が現れて……。

——突然、生活環境が激変するわけですね。

僕には姉と兄がいるんですが、継母にとってはこの3人を育てる義理はない。しかも、妹が3人生まれてからは、衣類や食べ物などすべてにおいて差別されました。

給食費や学用品費を出してもらえずに、学校に行きたくなくなったこともあったけれど、小学5年生になって、朝夕の新聞配達で生計が立てられるようになったときはうれしかった。

北中(京都市立北野中学校)で岸部(おさみ/一徳さん)と仲良くなったころは、早朝に牛乳配達をしてから学校に通っていました。

——その経験が、自立しなくては、という瞳さんの生き方の根源になった部分がありそうですね。

本来は自立するような人間ではないんです。でも、義理の母親にいろいろやってもらえなかったから、自分でやらなきゃいけない、自分のことは自分で、という強い気持ちが芽生えたのは確かです。

だから、今では逆に、義理の母に感謝しております。

——そんな少年期に音楽に興味を持ったきっかけは何でしたか?

3歳上の兄が童謡や唱歌を歌うのが好きだったんです。日常に歌があった。だから、歌好きは兄の影響が大きかったと思います。

僕には産みの母の記憶が全くないんですが、55歳のときに、姉から母の写真を初めて見せてもらったんです。そうしたら、35歳で亡くなった兄の面影が母によく似ていて。

実は、母は宝塚(歌劇団)に入りたかった人なんです。兄の唱歌好きは母から受け継いだもの。僕が音楽に興味を持ったのも、母が遺してくれたものだと思います。

僕は沢田をあまり入れたくなかった。なぜなら……

——小学校で森本タローさん、中学で岸部おさみさん、高校で加橋かつみさん、ジャズ喫茶で沢田研二さん—— 4人を引き合わせ、「ザ・タイガース」のベースを作ったのは瞳さんだと思います。

そうですね。たとえば1本の木があったら、“幹”は僕になるのかな。そして、“枝”が出てくるという形。でも、その枝葉の育ちに幹が負けている部分があります(笑)。

——出会ったときの、メンバーそれぞれの印象は?

森本は仁和小学校3年、4年で同じクラス。まさに“ボンボン”という感じでした。僕は悪ガキで超有名人だったから、彼は家で「あんな悪ガキと付き合っちゃいけないよ」と釘を刺されていたんじゃないかな? 顔は知ってたけど、高校生のときに河原町でばったり会うまでは、ほぼ口をきいたことがありませんでした。

岸部は北中のころ、寡黙だったし、友だちはいないし、暗い顔をしてました。でも、修学旅行で歌の話で意気投合して。一緒に歌ってみて、僕は彼の低い声のすばらしさに魅了されたんです。

——加橋さんは京都府立山城高校定時制の後輩ですね。

かつみは初めて会ったときから、格好つけ。いつもポーズ作って、格好をつけないと気が済まない。だから目立っていた。そういう意味では、芸能界向きだったのかもしれない。

——その4人が遊び仲間になってから、沢田さんと出会うんですね。

楽器でもやろうか、と「サリーとプレイボーイズ」というインストゥルメンタルバンドを組んだのですが、時世として「ザ・ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」なんかがボーカルを入れたり、コーラスをやり始めた。

だから、「ローリング・ストーンズ」で言えば、ミック・ジャガーみたいな存在が、沢田研二、ということですね。

——河原町の「田園」で歌っていた沢田さんを見て、ピンと来るものがあったんですか?

いや、僕はあまり入れたくなかった。なぜなら、僕ら4人はアイビーだったんだけれど、彼だけ一昔前のチンピラ風のファッションだったんです。

でも、当時の僕らには演奏の自信も、将来への見通しも何もなかった。それでも声をかけたら入ってくれて、「ファニーズ」が誕生した。僕はいまだに、沢田がなぜ入ってくれたのかがわからないですね。

——そんなバンドの担当はすんなり決まったのですか?

これが、それぞれ性格が出ているんですよ。

沢田は歌しかやっていないから、ボーカルって決まっていた。どちらかというとサブなタイプの森本がサイドギター。目立ちたがり屋のかつみがリードギター。奥ゆかしいというか地味な感じの岸部がべースギター。全く揉めることはありませんでした。

ほかの4人はあんまり動かないタイプ(笑)

——瞳さんはいちばん奥まったポジションのドラムスですね。

これは、身体的な理由です。義理の母にほったらかしにされていたし、姉や兄も僕に構っていられないし、自分は自分で稼がなきゃいけないしで、気が付いたら手足のしもやけがひどくなっていたんです。特に、左手の小指は、いまでも曲がってまっすぐに伸ばせない。

高校時代、ハワイアンにはまった兄にウクレレを教わったら、左手でうまく弦を押さえられないことに気がついて、ギターは諦めました。幸い、他に誰もドラムスをやりたいメンバーがいなかったので。

——でも、「ザ・タイガース」時代にテレビカメラに抜かれる瞳さんのドラム・アクションは格好良くて素敵でした。

たまに抜かれるから、いいってこともあります。でも、せっかくだから奥でも目立つよう派手に。「ザ・スパイダース」の田辺昭知(さん)のドラムスはきれいで格好よくて、憧れました。

ただ、ドラムスって肉体労働なんです。

「ザ・タイガース」でドラムしか叩かなかったときは、「沢田は大変だな」と思っていたんです。でも、いま、自分のバンド(「瞳みのる&二十二世紀バンド」)でドラムを叩いて歌を歌ってみたら、「なんだ、沢田は楽していたんだな」と思います(笑)。

——結局、「ファニーズ」デビューに向けていちばん奔走したのが、瞳さんだったと思います。

京都のジャズ喫茶には、「箱バン」と言う専属のバンドみたいのがいて、そこに割り込んでいくのはむずかしい。だったら大阪で新規参入を目指そうと、僕がひとり先遣で大阪に行きました。

——それから、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出られるようになって、スカウトの目に留まり始めた。内田裕也さんに「東京に出てこないか?」と声をかけられたので、話をつけに単身で東京に行き、デビューにこぎつけるまで、孤軍奮闘ですね。

ほかの4人はあんまり動かないタイプ。だから、僕みたいに、先頭で引っ張っていく行動派がいないとダメだったんです。なにしろ、僕は小さいころから、「自分でやらなくっちゃ」で育ってますからね。

瞳みのるさんのターニングポイント①
新規参入を目指そうと、僕がひとり先遣で大阪に行きました。ほかの4人はあまり動かないタイプ。だからこそ、先頭に立つ人間が必要だった。小さいころから「自分でやる」ことに慣れていましたから。

撮影/柴田和宣(主婦の友社)

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