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【ザ・タイガース】旋風のその先に。別れの裏にあった、知られざる物語[79歳・瞳みのるさんのターニングポイント#2]

  • 2026.1.18

【ザ・タイガース】旋風のその先に。別れの裏にあった、知られざる物語[79歳・瞳みのるさんのターニングポイント#2]

あの時代を知る人なら、きっと胸が熱くなる。グループサウンズの黄金期を駆け抜けた「ザ・タイガース」。その中で、仲間をまとめ、前へ前へと歩いてきたのが、瞳みのるさんでした。解散後、彼が選んだのは音楽とは異なる道——。いくつもの決断が、瞳さんの人生を形づくっています。第2回は、ザ・タイガース全盛期と解散への道。

岸部の低音、沢田の中音、加橋の高音

——「ファニーズ」は渡辺プロダクション所属になり、1966年11月に京都から上京することになります。

京都の府立植物園でファンが「ファニーズお別れ会」を開いてくれたり、京都駅の新幹線ホームに、ファンが50人余りも詰めかけて見送ってくれたのはうれしかったですね。

——関西では人気でも、東京で通用するのか……という不安はありませんでしたか?

芸能界、右も左もわからなかったので、不安はもちろんありました。

でも、デビュー直前の1月には、東京ではほぼ無名の「ザ・タイガース」に、「日劇ウエスタン・カーニバル」で“トリ”の1つ前で演奏するチャンスがもらえたんです。(内田)裕也さんの力だと思うけれど、毎回、ステージが終わる度にファンの数が増えている、回を追うごとに歓声が大きくなっていく……。そんな手ごたえがありました。

——上京3カ月もたたない1967年2月5日には「ザ・タイガース」としてデビュー。目まぐるしい日々だったのではありませんか?

デビュー曲『僕のマリー』のジャケット写真で着ているカーキ色のミリタリーは、「ファニーズ」時代に、「全関西ロックバンド・コンテスト」で優勝した賞金5万円でみんなで作った自前のユニフォームなんです。

2曲目の『シーサイド・バウンド』のジャケットも、衣装はすべて私服。いきなり三浦海岸に連れていかれて、僕以外はカメラマンに「ジャンプして!」と言われて撮ったのが、あのジャケ写です。

——ロケ場所は海岸、衣装も自前、ですか?

つまりは、渡辺プロダクションが僕らにあまり期待していなかった、ということ。でも、お金もかけずに売れたので、「ザ・タイガース」はコスト・パフォーマンスが最高のバンド。会社にとっては“金の卵を産むニワトリ”だった、ということです。

でも、僕は「ザ・タイガース」が売れたいちばんの理由は、コーラスがGSの中でズバ抜けたバンドだったからだと思っているんです。

岸部の低音、沢田の中音、加橋の高音—— このハーモニーは他のGSバンドには出せない唯一無二の魅力だったと思います。

——そして、デビュー3カ月後には『シーサイド・バウンド』で一気に人気爆発。テレビで見ない日はない多忙な日々が始まりますね。

その、売れた後がたいへんでした。

理由の1つ目は、時間がない。

2つ目は、やりたい音楽ができない。「ファニーズ」では100%洋楽をやってきたのに、東京に出てきたら、歌謡曲に近いような曲をやらされたので、すごくがっかりしました。

3つ目は、売れて稼いでいるのに、お金にならない。

——朝から深夜まで働いている割にはお給料が……ということですか?

たとえば、僕らは明治製菓というスポンサーのコマーシャルにたくさん出演させていただいたんです。

すると、チョコレートを何度も、美味しそうに食べるように指示される。OKが出るまで繰り返し撮り直しているうちに、僕らも疲れてくる。そうしたら、広告代理店の担当者から「たくさんお金を払っているのに、そんな顔はないだろう」と怒られる。

僕らは一定の給料しかもらっていないのに、何でそんなこと言われなくちゃいけないんだ、と思うようになっていきました。

大事な青春を無駄にしたくない—— それが、僕が「タイガースを辞めよう」と考え始めたいちばんのきっかけですね。

——おそらくファンは、沢田さんに次いで人気№2の瞳さんがそんな悩みを抱えているなんて気づいていなかったと思います。

1968年の月刊『明星』の表紙に僕は6回登場したんですが、沢田は4回。マネジャーの中井(国二)さんから「沢田は歌を歌う、瞳は歌わないのに人気があるのはなぜだ?」と不思議がられました。

確かに沢田は『君だけに愛を』で、「♪君だけに!」と指さした客席のファンが「ジュリー~」と大歓声を上げてくれる。僕はそんなことできませんからね。

余談ですが、60代で活動再開してから撮り下ろした「マルベル堂」のブロマイドが、タイガース時代の沢田のブロマイドの売り上げを抜いた、というのが僕の自慢です(笑)。

僕は一生、この5人でやっていくんだと思っていたから——

——そんな中、1969年3月に加橋さんが突然、脱退されました。

僕は一生、この5人でやっていくんだと思っていたから、そこで夢が破綻したわけです。

この5人ならコーラスグループとしてやっていける、加橋の高音があってこその「ザ・タイガース」だと思い描いていたので、ショックは大きかったです。

だから、僕も辞めたいと思って、当時、懇意にさせていただいていた作家の柴田錬三郎先生に相談しました。

——柴田先生からのアドバイスはいかがでしたか?

まず、「辞めてどうするんだ?」と。僕の答えは、役者になろうか、土門拳のようなカメラマンになろうかといろいろ考えたけれど、「まず、勉強がしたい」でした。

これまでしっかりやってこなかった勉強。勉強なら一生、自分の身から離れることはない、と考えたからです。

すると、先生からは「勉強するには金が要る」と言われました。僕は当時、貯金がなかった。そこで、お金を貯めるために渡辺プロに頭を下げて、辞めるのを1年延ばしてもらうことになりました。

——結局、1971年1月24日、日本武道館での「ザ・タイガース ビューティフルコンサート」を最後にバンドは解散することになりました。

自分たちで作ったバンドを、周囲の事情でつぶしたくはない。できることなら、「ファニーズ」で出発したころのバンドに戻れないかと僕も考えました。でも、それは無理だった、ということです。

どれだけ説得されても、脱退の意思を曲げなかった僕を、沢田はラストステージの上で歌いながら、「ぶん殴ってやろうかと思った」と後で聞きました。

——その解散コンサートの後、内田裕也さんが開いた打ち上げの席からそのまま京都に帰ってしまわれた……。

その日の朝、家財道具一式を2トントラックに積み込んで武道館に行き、そこから打ち上げの店の横につけて、みんなにサヨナラの捨て台詞を吐き、店の前のガードレールを越えて、そのまま夜通しトラックを走らせて京都に帰りました。

——捨て台詞、ですか?

帰り際に、「お前たちに将来はない。行く行くは乞食になっているだろう」と言ったんです。「もう二度と会うことはない」って。

——それくらい、芸能界とは縁を切る、という決意が固かったということですよね。

あのときはそうでした。でも、結局は芸能界に戻って活動再開しているわけなので、あの台詞は……、と今では思っています。

瞳みのるさん Profile

瞳みのる●ひとみ・みのる
1946年、京都府生まれ。ザ・タイガースのドラマーとして67年にデビュー。71年のグループ解散後は、高校復学を経て慶應義塾大学文学部中国文学科へ。修士課程へ進み、教員免許を取得する。その後、慶應義塾高等学校教諭として中国語・漢文を担当し、2010年に退職。11年からはミュージシャンとしての活動を再開し、瞳みのる&二十二世紀バンドなどで精力的に活動中。
瞳みのるオフィシャルサイト
瞳みのるオフィシャルブログ

瞳みのるさんのターニングポイント②
僕は、この5人で一生やっていくものだと信じていましたから、夢が崩れた瞬間でした。では、これからどう生きるのか。心に浮かんだのが、これまで十分に向き合ってこなかった「勉強」でした。勉強なら一生、自分の身から離れることはない。



撮影/柴田和宣(主婦の友社)

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