1. トップ
  2. 「タイガースはいつも楽屋で寝てましたね」と言われた、日本一のバンドの舞台裏【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#2】

「タイガースはいつも楽屋で寝てましたね」と言われた、日本一のバンドの舞台裏【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#2】

  • 2025.12.20

「タイガースはいつも楽屋で寝てましたね」と言われた、日本一のバンドの舞台裏【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#2】

グループサウンズの黄金期を牽引したザ・タイガース。その中で森本太郎さんは、仲間から厚く信頼される存在でした。当時のGSでは珍しい自作曲「青い鳥」は今も多くのファンに親しまれています。衝撃的な成功の日々と解散、音楽プロデューサーの活躍など、森本さんの人生のターニングポイントについて伺いました。第2回は、一世を風靡したタイガース時代の舞台裏。

「日本一のバンドになる!」当時5人はワクワクしていた

——憧れの「ナンバ一番」のオーディションに合格されたので、京都から大阪に出て、明月荘で合宿生活を始めたんですね。

いやいや、オーディションには落っこったんです。

ところが、ある日、僕の自宅に電話がかかってきて「ナンバ一番に出てほしい」と言われて。これは、“トラ”(エキストラの略)と言って、出演者が急に出られなくなったときの代役なんですけれど。

あわててみんなに「ファニーズがナンバ一番に出られるよ」と連絡したら、喜びましたね。たった1日だけなんだけれど。しかも、ツーバンドで、売れているバンドの前座だったんだけれど。

ところが、その1回の出演で、ファニーズのファンになってくれた人がいたんです。多分、僕らの後に出るバンドのファンだったと思うんですけれど。そこからファンが増えていった気がします。

——たった1回のチャンスを逃さなかった、ということですね。

そこから「ナンバ一番」にたくさん出られるようになって、明月荘という古いアパートで合宿することにしました。

最近、ジュリー、サリー、ピーと4人で話していて、「合宿していたとき、ご飯って何食べてたん?」と話題になったけれど、誰も覚えていない。でも、僕らお金がなかったから、ギャラが出たらみんなで“まむし”(うなぎ)を食べに行った記憶だけは一緒でした。

——そんな合宿生活の中、「日本一のバンドになる」という5人の目標が定まったんですね。

「日本一」という言葉は、多分、サリーが言い出したんだと思います。今になってみると「下手くそなバンドなのに、よくそんな法螺が吹ける」って思うけれど、当時は5人でワクワクしていましたね。

——そんな「ファニーズ」の人気を聞きつけて、スカウトが東京からやって来るようになったんですね。

1番目、2番目のスカウト話が立ち消えになって、3番目にスカウトに来てくれたのが、(内田)裕也さん。なぜか沢田に「東京に出て来ないか」と声をかけて下さって。僕らは「これが3度目の正直だ」と真剣でしたから、「東京に行きたいです」と即答しました。

ところが、裕也さんにスカウトの権限はなくて、しばらく音沙汰なし。それで、ピーが東京に話をつけに行って、渡辺プロからお偉いさんが大阪に会いに来て下さって、契約が決まったんです。

——「ファニーズ」結成からわずか1年の1966年10月のことですね。上京してプロになる、という決意を聞いたご家族の反応は?

「ナンバ一番」に出たころには、僕らはプロになるつもりで全員高校を中退していますからね。親はもう諦めていたと思います。

僕はそのまま大学に進める立命館高校に通わせてもらって、サラリーマンになると思っていたのに……ですからね。でも、反対することもなく、思い通りにさせてくれた親には感謝しています。

「タイガースはいつも楽屋で寝ていたね」と言われました

——上京してバンド名を「ザ・タイガース」に改称。1967年2月5日には『僕のマリー』でレコードデビュー。今では考えられないスピードでデビューし、しかも瞬く間に人気が爆発していきました。

「タイガース」はデビュー直前から、裕也さんの誘いで「日劇ウエスタンカーニバル」に出演させてもらったんです。「ザ・スパイダース」とか「(ジャッキー吉川と)ブルー・コメッツ」とか、GSの先輩バンドも競演する憧れのステージでした。

でも、裏を返せば、ファンの取り合いみたいなもの。歓声が人気のバロメーターなんです。「タイガース」が出るとファンの歓声がガーッと大きくなったり、入り待ち出待ちが集まるようになって、「すごく人気が出たな」ということは実感できました。

「スパイダース」の堺正章さんがよく言っているけれど、「タイガースに『プロの道は厳しいぞ。よく考えたほうがいい』とアドバイスしたら、半年後にはスパイダースを追い抜いていった」と。

だから、日劇に誘ってくれた裕也さんは「タイガース」の恩人です。

——「日本一のバンドになる」という目標が叶う中、メンバーはどんな心境だったのでしょう?

とにかく忙しすぎた。テレビはもちろん、ラジオのゲスト出演も各局いっぱい。それに芸能誌の取材や表紙、グラビア撮影……。

中でもTBSの「ヤング720」は朝の7時20分から生番組で1曲、ライブ演奏するんです。朝が終わったと思ったら、テレビ番組の収録が始まる。だから、カメリハ終わったら楽屋に帰って寝て、ランスルーをやったらまた寝て、本番直前に起きてメイクして。

テレビが終わったら、夜10時くらいから映画の撮影が始まる。『世界はボクらを待っている』の撮影があったときはキツかった。

——寝る時間がほとんどとれない毎日ですね。

渡辺プロの先輩から「タイガースはいつも楽屋で寝ていたね」と言われます。

寸暇を惜しんで休む。それを体が覚えているから、僕はいまでも電車とかバス、飛行機に乗っても、どんな体勢でもすぐに寝られます(笑)。

——テレビ画面からは、裏でそんなたいへんな思いをしていることは感じられませんでした。

アマチュア時代は遊びながらやっていた、みたいな感覚がどこかにありました。

でも、プロの世界は厳しいし、余りにもたくさん入ってくる仕事のすべてを、マネジャーの言うとおりに動かなければいけない。それがエンターテインメント・ビジネスだと今なら理解できます。でも、まだ若いのに自由がない、という思いは募っていきましたね。

——のちに作詞作曲された『夢追いかけた若い日』の2番の歌詞が、まさに当時のリアルな心境なんですね。

あれは、“ザ・タイガース物語”のような曲。僕の作品でいちばん好きな曲、とサリーが言ってくれている曲です。

おそらくファンの皆さんはテレビを見て、表面的なかっこよさや5人は仲がいいだろうというイメージを抱いていたと思います。

でも、実際はいつもメンバーで一緒にいるのが疲れてきたりもしていました。向かうべき方向がお互いにちょっとずつ違う、とチームワークが上手くいかなくなった。バンド内の確執、ですね。

——そんな葛藤の中でも、楽しかった思い出は何ですか?

日本人のワンバンドとしては初めて日本武道館でコンサートをしたこと、後楽園球場で最初にスタジアム・ライブを開催できたこと……。

いろいろあるけれど、当時の僕らは「今日のステージ、頑張らないといけないんだ」という日々の中の1コマだったんです。「すごいね」と言ってもらえるのはありがたいけれど、それがどれほど評価されているのかは、僕らには一切わからない。

——評価を味わう時間すらなかった、ということですね。

プロになって売れる、って、もっとうれしいものなのかと思っていたけど、実際は違った、ということです。

NHKの「SONGS」にジュリー、サリー、ピーと僕の4人で出演したとき(2012年1月)、僕は「一番楽しかったのは、やっぱりファニーズの頃だね。タイガースじゃなくて」と言った記憶があるんです。「タイガース」時代は、大変だったことのほうが多かった。

森本太郎さんのターニングポイント②
アマチュア時代は遊びながらやっていたから、楽しかった。だがプロは厳しい。プロになって売れるって、もっとうれしいものなのかと思っていたけど、実際は違った。タイガース時代は、大変だったことのほうが多かった。

森本太郎さん Profile

森本太郎●ザ・タイガースの元メンバー
ギタリスト・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー
1946年、京都生まれ。1967年に「ザ・タイガース」のギタリストとして『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。ザ・タイガースの8枚目のシングルに収録された『青い鳥』では作詞作曲を担当し、自作の一曲として高く評価されている。解散後は、「タローとアルファベッツ」「森本タローとスーパースター」などのバンド活動やソロ活動、作詞作曲、音楽プロデュース業を精力的に展開。1981年のタイガース再結成にも参加し、現在も幅広く音楽活動を続けている。愛称は「タロー」。
森本太郎 公式サイト

撮影/橋本哲

元記事で読む
の記事をもっとみる