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ザ・タイガース武道館解散の日。僕も沢田も涙で歌った『青い鳥』【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#3】

  • 2025.12.21

ザ・タイガース武道館解散の日。僕も沢田も涙で歌った『青い鳥』【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#3】

グループサウンズの黄金期を牽引したザ・タイガース。その中で森本太郎さんは、仲間から厚く信頼される存在でした。当時のGSでは珍しい自作曲「青い鳥」は今も多くのファンに親しまれています。衝撃的な成功の日々と解散、音楽プロデューサーの活躍など、森本さんの人生のターニングポイントについて伺いました。第3回は、武道館のラストステージの思い出。

解散コンサートでジュリーと歌った『青い鳥』は忘れられない

——誰もが人気絶頂、と感じていた1969年3月に加橋かつみさんの脱退が発表されたのは、衝撃的でした。

メンバーの間に、考えや意見の違いが出てきていましたからね。

翌年に田園コロシアム(田園調布のテニスコート)でコンサートをやったときには、リードギターのかつみがいなくなっていたので、僕はたいへんでした。その分、印象に強く残っています。

——そこから解散に向かうきっかけは何でしたか?

ちょうどそのころ、グループサウンズ自体がだいぶ衰退してきたことも肌で感じていました。特に、僕らがデビューした後から「オリコンチャート」で毎週のレコード売り上げがチェックできるようになったんです。

すると、売り上げが低迷したバンドから順に解散していく流れが始まった。そのうち、「僕らもそろそろだろうな」という感じになっていきました。一度下り坂に入ったら、また盛り返すのは無理だろう、と。

——解散が1971年1月24日。結成して4年足らずで解散の決断をするとはもったいない、潔すぎると誰もが感じたと思いますが。

潔かったとしたら、ピーのおかげ。もちろん僕らも事務所としても仕方なしの決断でしたけれど。

実は、トッポが辞めたとき、ピーも辞めて芸能界を離れたがっていた。でも、マネジャーに「貯金あるの? ない? じゃあ、頑張ってお金を貯めなきゃダメだ」って説得されて、解散が1年先延ばしになったんです。

できるだけファンの方がいらっしゃるうちに、日本武道館で「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」と銘打った解散コンサートができたのも、1年という時間があったからかもしれません。

——武道館のラストステージで『青い鳥』を演奏する森本さんが、途中から涙で歌えなくなったシーンが忘れられません。

『青い鳥』はまだかつみが脱退する前に、僕が初めて作詞作曲した曲。僕にとっては、ほんとうの処女作です。

「タイガース」の名付け親でもあり、恩人でもある作曲家のすぎやま(こういち)先生に」「イントロがすごくいいね。そのまま使うよ」とほめていただいてうれしかった思い出もあります。

『ヒューマン・ルネッサンス』という3枚目のアルバムに収録されて、のちにシングルカットもされて、僕にとっては思い入れの深い曲なんです。

終盤に沢田と二人で歌うんですが、「あー、これで終わりなんだ」「みんなともう会えないんだ」ってジワジワ実感してきたら、涙が出てきて歌えなくなりました。沢田も涙ぐみながら歌っていましたね。

——明日からはそれぞれ別の道を歩むんだ、という思いですね。

はっきり言って、「ザ・タイガース」のメンバーは、僕にとっては“竹馬の友”みたいなもの。

幼なじみから始まって、バンドを作って、日本一を夢見て合宿して……。プロになる前から5人でいろんな経験をしたことを思い出したら、万感胸に迫るものがありました。

——ほかのメンバーの様子はどう感じましたか?

みんなそれぞれ、胸にこみ上げるものを曲にぶつけるように、夢中で演奏し、歌っていたと思います。メンバーの姿を見て、「これが僕にとって青春の終焉だ」と感じました。

西城秀樹の音楽プロデューサーとして奔走も!

——そんな解散コンサートから間もなく、「タローとアルファベッツ」を結成されました。

解散する半年前から、渡辺プロに「タローはどうしたい?」と聞かれたので、僕は「バンドを作りたい」とすぐに答えました。

逆に言えば、「解散後もがんばらないといけないな」と覚悟が決まった感じでした。「曲を作らないと」「メンバーのオーディションもしなければ」と考えることがたくさんあったので、解散後の寂しさはそれほど感じないですんだのかもしれません。

——続いて「森本太郎とスーパースター」を結成された後、プロデューサーの立場に回られたのにはどんな理由が?

芸映プロダクションから、「西城秀樹の音楽プロデューサーをやってくれないか」と誘われたのがきっかけです。当時の秀樹は結構売れ始めていたから、やりがいがありました。

——それまでアーティストとしてプロデューサーから「こうしてほしい」と指示されていたのとは全く逆の立場ですね。

言ってみれば僕のちょっと悪い癖で、“仕切り屋さん”なんです。

「ファニーズ」の頃から「1曲目、2曲目はこれだ」とか「この曲はトッポに合ってるな」「これは沢田が合ってる」とか、セットリストを作ることもありました。

曲を決める基準は「僕らみたいな下手なバンドが演奏できるか、できないか」。やりたいことと、やれることは別だ、ということはわかっていたつもりです。

——裏方としての経験は森本さんにとってどんな意味がありましたか?

たとえば、秀樹の大阪球場でのスタジアム・コンサートに、僕もスタッフで入ったんです。あれだけ大きな舞台をどうやって組み立てるかと言ったら、音響、照明、大道具、舞台デザイナーから警備まで、ものすごい人数を集めて、動かさなくてはならない。

その一方で、ステージに立つ側の立場もわかるから、楽屋に戻った秀樹の代わりにサウンドチェックやマイクテストもやっていました。秀樹は舞台を右に左に、上手下手と走り回るから、僕も必死で走ってチェックしていました。

それもこれもすべて、ステージに立つ人がいい音で、歌いやすい環境を作るため。裏方の仕事を理解した、ということは、僕にとってものすごく良い経験でした。

森本太郎さんのターニングポイント③
「ザ・タイガース」のメンバーは、“竹馬の友”みたいなもの。解散は、青春の終焉だと感じた。その後、音楽プロデューサーとして裏方の仕事を理解したことは、僕にとってものすごく良い経験となった。

森本太郎さん Profile

森本太郎●ザ・タイガースの元メンバー
ギタリスト・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー
1946年、京都生まれ。1967年に「ザ・タイガース」のギタリストとして『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。ザ・タイガースの8枚目のシングルに収録された『青い鳥』では作詞作曲を担当し、自作の一曲として高く評価されている。解散後は、「タローとアルファベッツ」「森本タローとスーパースター」などのバンド活動やソロ活動、作詞作曲、音楽プロデュース業を精力的に展開。1981年のタイガース再結成にも参加し、現在も幅広く音楽活動を続けている。愛称は「タロー」。
森本太郎 公式サイト

撮影/橋本哲

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