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【北九州市若松区】高塔山・かっぱ伝説『河童封じの地蔵尊』で火野葦平を思う

  • 2025.7.1

はじめまして、リビングふくおか・北九州Web地域特派員になりました岩井です。北九州市在住の、火野葦平愛好家です。 これから、葦平に関するスポットをご紹介することで、葦平の魅力を伝えていきたいと思います。

火野葦平(本名玉井勝則)は石炭仲仕小頭である父玉井金五郎のもと若松に生まれました。若い頃から文学を志すも、長男である葦平は家業を継ぐことを強いられ、ペンを折る決意を固め早稲田から若松に戻ります。しかしその後も執筆を続けた葦平は「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞。日中戦争で応召していた葦平は進軍先の杭州にて異例の芥川賞陣中授与式。報道部員に転属しベストセラーとなる兵隊三部作を発表、北九州の無名文学青年は一躍流行作家としてスポットライトを浴びました。しかし戦後戦争責任を問われ、公職追放されるなど、世の中や人の心の移り変わりに苦しめられます。そんな葦平の傷ついた心を癒すのは河童たちの存在でした。

葦平は無類の河童好きで、河童に関する作品を多く残しています。その中でも最も有名なのは「石と釘」ではないでしょうか。

若松を一望する高塔山には河童を封印する地蔵があり、これは地域に残る伝承を元に作られたもので、「石と釘」はその伝承を下敷きに創作された作品です。

出典:リビングふくおか・北九州Web

高塔山頂上の高塔山公園。

石と釘

「昔、修多羅村の河童軍と島郷村河童軍が戦争して、空中戦を演じ、戦死した河童は地上に落ち、農作物を腐敗させるので、両村の百姓達の難儀はひとかたでなかった。ある日一人の山伏が修多羅村の鍛冶屋の表にあらわれ釘を打ってくれという。乞食山伏奴と鍛冶屋が打とうとすると手がしびれ、怖れをなして、大釘を打ってやった。この山伏は堂丸総学という男で、河童を封じるためその大釘をたずさえ、高塔山上の地蔵尊の前で祈祷をはじめた。両村の河童軍はこれは大変とばかり、たちまち同盟を結び、堂丸総学を攻撃して祈祷を妨げようとした。しかし総学の呪文のため近寄れない。三九・二十七日間、行を終えた総学は、大釘をとりあげ、今は豆腐のごとく柔かくなった地蔵の背中にそれを打ち込んだ。しかしその時経文から手を話したため、襲いかかった河童達のため身を裂かれて死んだ。が、釘の効力によって河童達はたちまち全部地上に落ち、どろどろの青みどろとなって地上へ封じ込まれてしまった。」

これは若松の河童伝説とされていますが、火野葦平が1940(昭和15)年に発表した「石と釘」という小説のストーリーであり、フィクションです。本人も郷土の伝説にフィクションを交えて創作したものだと明言しています。

出典:リビングふくおか・北九州Web

「石と釘」の内容を解説する看板

修多羅に伝わる河童伝説

河童封じの伝説として修多羅に伝わる言い伝えがあります。

「修多羅村の庄屋がある時、池で馬に水を飲ませ、つないでおいて家に帰った。ところが厩で変な馬のいななきがするから、行ってみると、つないでおいた馬が帰っていて、しかも厩の中には河童が一匹小さくなってうずくまっていた。すぐ捕えて縛ったら、河童はもうこれから悪戯はせぬからとしきりにことわりをいう。この河童は馬を池の中へ引きずりこもうとして力およばず、馬から逆に厩まで引きずってこられたのである。庄屋は河童をゆるしてやり、その時ぜったいに修多羅村の者を池に引き込んではならぬと約束させた。高塔山の地蔵の背に釘を打っておくから、その釘のある間はぜったいに悪戯をするなと念を押し、河童をはなしてやった。それいらい修多羅村の者で水死するものがなくなった。河童は毎年一年の終わりに釘の有無をたしかめるため、高塔山に登ってゆく。そして釘があるので、いつも首うなだれ、すごすごと山を下ってゆくのである。」

葦平はこの伝承をもとに石と釘を書いたのでしょう。

出典:リビングふくおか・北九州Web

修多羅につたわる河童伝説についても説明してあります。

安屋に伝わるもう一つの河童伝説

また、安屋にはもう一つの河童の言い伝えがあるといわれています。

「脇田の浦人が海岸の小道を歩いていたら、しきりに足を引っ張る者がある。それが小さな河童だった。すぐ引っ捕えると、もう悪戯をしないから許してくれという。そこで、三本松が三本あるかぎり、けっして悪戯をするな。そういったら河童も、三本松あるかぎり、人間も河童をいじめないでくれ。そう浦人に約束させた。それ以来この松は河童の三本松と呼ばれ、河童の害がなくなった。」

脇田にはかつて有名な三本松があったようで、修多羅の伝説と類似した伝説です。父金五郎は寝物語に様々な作り話を聞かせてくれたということで、葦平の河童好きの原点もそこから始まったのかもしれません。安屋や修多羅に伝わる河童伝説を耳にした金五郎が、それを子供達に話している様子が目に浮かぶようです。

出典:リビングふくおか・北九州Web

6月の高塔山公園は紫陽花が満開

河童地蔵

高塔山公園の展望台に近づくと、小さな祠が見えてきます。若松、戸畑、八幡が見渡せる展望台からの眺めは格別、世界を旅した火野葦平は日本一の夜景として、著名人が若松を訪れるたびにここに案内してその眺望を自慢しました。その頃はまだ若松と戸畑を結ぶ若戸大橋も架橋前でしたが、洞海湾周辺の色とりどりの灯火、製鉄所の溶鉱炉の輝きで幻想的な夜景だったそうです。現在は若松の景色も当時とは大きく変わりましたが、いまでもその素晴らしい夜景の魅力は衰えていません。

標高124mの高塔山について葦平は、”山というよりは丘の親分のようなもの”と表現していましたが、その分散歩にも丁度よく、平日にも拘らず多くの観光客で賑わっていました。

出典:リビングふくおか・北九州Web

花頭窓が特徴の凝った作りの祠

堂の中には河童封じの地蔵がおさめられており、伝承通りにその背中には大きな釘が刺さっています。

出典:リビングふくおか・北九州Web

歴史が感じられる地蔵は赤い前掛けがかけられ、丁寧に扱われているのがわかる

出典:リビングふくおか・北九州Web

背中には伝承通り鉄の釘が刺さっている

抜かれた釘

1953(昭和28)年には河童地蔵の釘が抜かれるという事件が起こり、葦平はこのことを”抜かれた釘”という作品に残しております。その翌年、葦平は早速”大釘打込式”を催しました。いま地蔵の背中に見えているこの釘は、その時葦平が打ち込んだものです。

出典:リビングふくおか・北九州Web

1999(平成11)年、またも虚空蔵菩薩は災難にあう

1999(平成11)年には河童地蔵がイタズラに遭い、首が折られるという事件も起きました。現在は復元されていますが、当時の浄財を願う看板は撤去されずに残っています。

火まつり行事

1954(昭和29)年に葦平は”戦後のすさんだ世の中を明るく照らそう”という想いを込めて、高塔山頂上で河童たちを招待する祭りを始めました。これに賛同した多くの人が高塔山を目指し、たいまつを掲げて登ったことが火まつり行事の始まりです。当時は葦平が河童地蔵前で祭文を読み上げていました。戦争作家、兵隊作家と呼ばれる事もある葦平ですが、この祭文では澆季末世の時代を嘆き、原水爆絶対反対を訴えていました。

出典:リビングふくおか・北九州Web

葦平の願いは現在まで受け継がれており、今年の火まつりは7月26日土曜に開催されます。久岐の浜広場(JR若松駅横)にて受付、かっぱ祭り、高塔山公園までたいまつ行列を行います。参加には事前予約が必要です。(令和7年7月18日まで)

かっぱ祭りで披露される圧巻の「五平太ばやし」は必見。葦平が作詞した五平太ばやしは、毎年開催される葦平忌でも迫力ある演奏で好評を博しています。

見所満点の若松・高塔山

葦平の墓がある安養寺が所有する河童地蔵。葦平の弟、玉井政雄氏が昔はひどく錆びた釘が刺さっていたと書いており、折れた首を修理した石工は、河童地蔵にはそれ以前にも首を継いだ跡があると話していたようです。郷土史研究家の若宮幸一さんによると、この地蔵はおそらく中世から存在し、当時は小さな祠におさめられてとの事。戦後今のような立派なものに作り変え、その際に葦平の物語にちなんで釘が打ち込まれたのではないかという事でした。

背中に釘の刺さった地蔵はとても珍しく、一見の価値があります。それだけでなく、高塔山からの美しい展望、溢れる自然は疲れた心を癒してくれます。”花と龍”の舞台になった若松は火野葦平の生まれ育った町で、文学好きはもちろん、そうでない方も充分楽しんでいただけるスポットがいっぱいです。高塔山まで羽を伸ばしに来られた際は、河童地蔵だけではなく、若松散策、文学散歩をお楽しみください。

高塔山公園
〒808-0053北九州市若松区大字修多羅
駐車場有
JR小倉駅より車で25分
JR若松駅より徒歩30分、車で8分
北九州市営バス「大橋通り」バス停より徒歩30分
若戸渡船の若松渡場より徒歩40分
URL:https://www.city.kitakyushu.lg.jp/wakamatsu/file_0014.html

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