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【北九州市若松区】「火野葦平資料館」で火野葦平の魅力の秘密を探る

  • 2025.7.15

リビングふくおか・北九州Web地域特派員、火野葦平愛好家岩井です。

JR若松駅横の若松市民会館内には郷土作家火野葦平の資料館があります。実はこの資料館はもともと小倉に建設予定でした。1973(昭和48)年に火野葦平の書斎を小倉城に移転するための予算が計上されましたが、郷土を愛した葦平の為にも、資料館は若松につくるべきだという運動が起こり、12年の苦節を経て、1985(昭和60)年に「火野葦平資料館」は若松に公開されました。今年は資料館開設40周年を迎えます。

火野葦平資料館の歴史

出典:リビングふくおか・北九州Web

若松市民会館内の火野葦平資料館。企画展の内容は1年毎に変わります。2025(令和7)年は「葦平と挿絵画家展PartII

「火野葦平資料館を若松につくる会」は、小倉に資料館を作るという計画に反対した為、葦平を拒否する運動と捉えられて批判されることもあったそうです。しかし、会報の発行や火野葦平回顧展の定期的な開催、文学散歩地図の作成、稀覯書の刊行など様々な活動を通して多くの協力者を得て悲願を成就するに至りましたが、並々ならぬ努力が注がれたことは疑いようもありません。

見どころ満点の書斎

出典:リビングふくおか・北九州Web

若松の資料館に移設された葦平の書斎。

葦平資料館には、葦平の書斎が移設されており、現在河伯洞の書斎にある調度品ではなく、こちらに展示されているものが実際に葦平が愛用してきたもので、配置などもそのまま再現されております。

出典:リビングふくおか・北九州Web

精工舎の柱時計は「花と龍」に登場する。

この復元された書斎は資料館の1番の見どころでしょう。柱に掛けられた時計は精工舎製、「花と龍」に登場するもの。玉井組の開業記念として購入した時計で、もちろん裏面には原作通り金五郎の肉太の字が書かれています。

新仲町 玉井組
明治三十九年四月二日求之
本品ハ請負業開業記念トシテ
愛智時計店ヨリ買収セリ
一金四圓七拾銭也
営業開始ハ二月十九日

時計が当時としてはかなり高額なものだったのは、購入にあたってマンと金五郎の間で口喧嘩が起きたことからもわかります。1906(明治39)年は玉井組、そして葦平誕生の年でもありますが、玉井組は1942(昭和17)年に企業整備で解散、葦平も1960(昭和35)年に亡くなりますので、この時計だけが今も残っていることはとても感慨深いものを感じます。

出典:リビングふくおか・北九州Web

葦平が愛した郷土玩具や様々な調度品が見事に調和した書斎は、優れた美的感覚が窺える

マンドリンの存在にも注目。葦平は中学時代よりマンドリンの練習を始めて、弟の玉井政雄氏もその演奏を聞いています。多くの詩画を残し、兵隊手帳には現地の様子を丁寧にスケッチした葦平。豊後浄瑠璃をうなったり、マンドリンを弾いたり、兵隊作家と思い込まれることもありますが、葦平は芸術を愛する平和主義者でした。

火野葦平と川筋気質

出典:リビングふくおか・北九州Web

葦平資料館の館長、坂口博さん。

葦平が幼少期を過ごした若松は、石炭景気目当てに各地からやってきた多くの流れものの町。遠賀川流域の石炭に関わる仕事をする者たちには”川筋気質”と呼ばれる共通の性質が醸成されました。”川筋気質”とは気性が荒く、喧嘩っ早い、宵越しの銭は持たない、竹を割ったような性格の事。金五郎とマンの2人も故郷を出て若松に腰を据えます。そこで生まれ、仲仕たちに囲まれて育った葦平はまさに川筋気質が身に染み付いていたと言えるかもしれません。 川筋気質というと、暴力的な側面に注目されがちですが、流れ者同士が助け合い支え合うという、美しい人情深さも大きな特徴です。

「花と龍」に描かれているように、葦平の父金五郎と若松の大親分吉田磯吉は敵対関係にありました。しかし吉田親分の派閥の者が、戦争の住宅難に喘いだ玉井家を、犬猿の仲にも拘らず屈託なく助けてくれたことがあるそうです。 ”弱者を庇うこと”それは葦平の母マンの教えでもあります。幼少期を川筋気質の沖仲仕たちと過ごした葦平は、親分として仲仕たちを取り仕切る立場に立った時にも、炭積機建設反対を行うなど一貫して労働者を守る為に行動しました。戦後社会に手のひら返しを食らった時にもきっと義理堅い川筋気質の仲仕たちは葦平を見捨てる事はなかったでしょう。

中村哲と川筋気質

出典:リビングふくおか・北九州Web

中村哲さんは火野葦平の甥にあたります。

葦平の妹・秀子と中村勉の間に生まれた中村哲さんは、パキスタン・アフガニスタンでの幅広い人道支援で多くの命を救い、2019(令和元)年に凶弾に倒れるまでその活動を止めることはありませんでした。玉井金五郎を祖父に持つ中村哲さんは火野葦平の甥に当たります。

幼少期を河伯洞で過ごした哲さんは、祖母マンに命の大切さを教えられたそうです。哲さんがパキスタンでの活動を始めたのも、マンの教えが人生の指針として大きな役割を果たしたことでしょう。ハンセン病患者の靴が足に負担を与えていると知ると、靴を作り、旱魃による水不足に直面すれば井戸を掘り、灌漑用水路を建設し、その活動は医師という職業の枠を超えて、”弱者を庇う”という信念のもとに行動していたのではないでしょうか。

日本よりも、アフガニスタンの人々の剥き出しの人間性に魅力を感じていた哲さん。そこに川筋気質のようなものを感じていたのかもしれません。

火野葦平の生涯

出典:リビングふくおか・北九州Web

資料館には数多くの展示物とともに、葦平の生涯が詳しく解説されている

故郷に骨を埋めた葦平、異国の地に人生を捧げた哲さん、2人に共通するのはマンの教えと川筋気質。形は違えど2人とも一つのことに生涯をかけて取り組み、多くの人に影響を与えました。火野葦平資料館では、その膨大な所蔵品から葦平の足跡を知ることができます。

出典:リビングふくおか・北九州Web

葦平が死の前日に描いた色紙。”河童沈思”の文字と孤独な河童が描かれている。

「糞尿譚」の芥川賞受賞、「麦と兵隊」のヒットで全国で認知される存在となり脚光を浴びた火野葦平は、敗戦後の日本で厳しく戦争責任を追及され、事大主義な人々の糾弾の矢面に立ち、公職追放の対象となり、社会からも居場所を失い、失意の底にありました。そんな四面楚歌の状況でも「花と龍」などの作品で生涯流行作家であり続けた葦平ですが、孤独や社会との戦い葦平の中で戦争は終わる事はありませんでした。

葦平の最期

出典:リビングふくおか・北九州Web

画家を志したこともあった葦平は絵の腕もかなりのもの。特に河童の絵を多く残した。

葦平は1960(昭和35)年の1月24日、書斎で亡くなりました。家族へのダメージを考慮して、その死因が睡眠薬の過剰摂取による自殺だということは伏せられ、心臓発作によるものだと発表されます。

命日は、戸籍上の葦平の誕生日の前日でした。そして、母マンは葦平の三回忌の日に、妻良子は十三回忌の日に、3人は同じ1月24日に亡くなったのです。3人を見下ろしていた海抜四百尺の高塔山、その標高は124m。

郷土を愛し、郷土に生きた偉大なる作家・火野葦平。多くの作品で人々を感動させた葦平は、スポットライトの裏側で孤独な戦いを続けていました。彼が戦っていたものは何なのか、何に苦しめられていたのか、インターネットを探すだけでは見つからない情報を、ここ火野葦平資料館で知ることができます。

今でも多くの人を魅了する火野葦平、その魅力と秘密を「火野葦平資料館」で感じてみてはいかがでしょう?

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