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日本GP初参戦でいきなり優勝! “ノビー”上田昇が世界を驚かせた1991年鈴鹿

  • 2026.8.24

「上田昇選手? 知らない……」。ところが1991年の世界GP日本ラウンド、その無名に近かった日本人ライダーはGP125ccクラスでポールポジションを獲得し、決勝でも世界の強豪を破って優勝してしまう。“ノビー”こと上田昇、世界GP初参戦での衝撃的な勝利だ。イラストレーター松屋正蔵が、鈴鹿で目撃した鮮烈なデビューと、その後変化していった独特のライディングフォームを振り返る。

※この記事は過去に掲載された内容をもとに、WEB向けに再構成しています。

世界GP初参戦でポール・トゥ・ウイン! 上田昇の衝撃

世界GPを好きになって、ずいぶん長い時間が経ちました。

工業高校を赤点を取りながらも、追試、追試を繰り返して何とか卒業式に出られたのが1980年でした。高校卒業後は、すぐにフランスパンで有名な会社へ就職し、製造工場でパンの仕込みをしていました。

仕事を覚えた頃、やはり子供の頃から夢だった漫画家になりたいという気持ちが強くなり、いろいろありまして、その年の秋には矢口高雄先生のアシスタントとして働き始めました。

矢口プロでは新人に下働きがあり、通常なら半年ほどで次の新人が入って卒業できるのですが、僕の場合は後輩が1年半も入ってこず、ずっとアトリエの掃除からお茶入れ、夜中には先輩方の夜食作りまで続けていました。

そんな1981~82年頃、偶然テレビで観たモリワキレーシングのドキュメンタリー番組をきっかけに、ロードレースと出会いました。

当時住んでいたのは、まるで隠れ家のような四畳半一間、共同トイレ・風呂なしのアパート。留守番録画でさまざまなレース番組を録り貯め、休日にそれらを観るのが気分転換になっていました。

若い頃は、そんなフツフツとした毎日を送っていました。

そして時は流れ、1991年シーズンの世界GPが開幕します。

開幕戦の舞台は日本、鈴鹿サーキットでした。

このレースを観戦するためにバスツアーへ申し込み、金曜日から鈴鹿サーキット入り。サーキット内を歩き回り、さまざまな観戦ポイントからGPライダーたちの走りをカメラの望遠レンズ越しに追いかけていました。

そこで驚かされたのが、GP125ccクラスの予選結果です。

トップは日本人の上田昇選手。

「上田選手? 知らない……」

当時、全日本ロードレースをテレビでしっかり観られる環境ではなかったこともあり、僕は上田昇選手のことを知りませんでした。当時を知る読者のなかにも、同じように驚いた方がいたのではないでしょうか。

まさに青天の霹靂でした。

いきなり、とんでもなく速い日本人ライダーが現れたのです。

上田選手は日本GPの予選で見事ポールポジションを獲得。そして、その勢いのまま決勝でも名だたるGPライダーたちを退け、なんと優勝してしまいました。

世界GP初参戦で、ポール・トゥ・ウイン。

そのインパクトは強烈でした。

日本GP後もその勢いのまま世界GPへ参戦。初めて走るサーキットばかりだったにもかかわらず、トップグループを走る姿には驚かされました。

後年にはGP125ccクラスの名門チームでも走り、日本人には当時見慣れなかった海外メーカーのヘルメットや革ツナギを身につけ、マルボロカラーのマシンでも活躍しました。

イタリア語もあっという間に覚えてしまったようで、チームのなかで和気あいあいと過ごす姿もテレビ放送から伝わってきました。

そんな“ノビー上田”さんのライディングを、1990年の全日本を収録したビデオであらためて確認してみました。

僕の記憶では「強い前乗りで、上半身が立ち気味」という印象だったのですが、当時の映像を観察すると、実際には腰を引き気味にして、リアに体重を掛けるポジションで乗っていました。

世界GP初参戦初優勝を飾った1991年日本GPでは、その姿勢からさらに上体を深く伏せていました。

ところが1995年の映像を観てみると、引き気味の腰の位置は変わらないものの、上半身は立ち気味になり、まるでリーンアウトとも思えるフォームへと変化していました。

世界GPでキャリアを重ねていくなかでの変化ですから、速く走り続けるために必要な進化だったのでしょう。

1991年、日本GPで突然世界の舞台に現れ、初参戦でポールポジションを獲得。そのまま決勝まで制してしまった上田昇さん。

その後も世界GPの第一線で活躍を続けた“ノビー上田”さんは、速さはもちろん、そのキャラクターやライディングフォームも含め、実にユニークな存在感を放つGPライダーでした。

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