1. トップ
  2. #44 王貞治(巨人) H・アーロンを抜く世界新記録 756号

#44 王貞治(巨人) H・アーロンを抜く世界新記録 756号

  • 2026.8.24

◎1977年9月3日 後楽園球場

ヤクルト 0 0 0 1 0 0 0 0 0 =1

巨人 2 0 1 0 0 0 3 2 X =8

HR(ヤクルト)若松17号

(巨人)王40号 張本22号

「ピッチャーの鈴木康二朗、第6球を投げた……打った! これはホームランになりそう! 世界新記録! 入った! ホームラン! 王バンザイ! ハンク・アーロンの記録を破った! 世界一の白球は、人工芝の上を飛んで、後楽園球場、ライトスタンドの大観衆の中に吸い込まれました! 王はバンザイをしながら、ゆっくりと今、三塁ベースを踏んで、黒江コーチと軽い握手。ゆっくりと今、王が世界一の笑みを浮かべながらホームへ向かっています。今、王、ホームイン! 花火が打ち上がりました。おめでとう、王選手。世界一、日本一の王から、世界一の王誕生という歴史的な瞬間であります」(実況:枇杷阪明アナウンサー)

一本足打法でホームランを量産し、本塁打王に輝くこと実に15回(13年連続を含む)。現在もNPB・MLBを通じて世界歴代1位の通算868本塁打を放った巨人・王貞治(現・福岡ソフトバンクホークス会長)。当時の実況にもあるように、王が「日本一の王」から「世界一の王」になった記念すべき日が、1977年9月3日だった。

王以前に、世界で最も多くホームランを打っていた選手は、MLB・ブレーブスで活躍し、通算755本を打ったハンク・アーロンだった(1976年、ブリュワーズで引退)。王は1974年に日本球界初の600号を放ったが、そこまではさほど騒がれなかった。ところが、700号から扱いがガラッと変わる。「世界一」が見えてきたからだ。

王の周りには急に報道陣が増え、「日本初の700号はいつ出るのか?」と毎日あおる。こうなるとさすがの王もプレッシャーを感じずにはいられない。700号は1976年7月23日、川崎球場で行われた大洋戦で鵜沢達雄から放ったが、7試合・30打席ぶりの一発だった。王は当時こう語っている。「なんでこんなに騒ぐのかわからない。600号だって、日本では僕が一番だったのに……」。敵地にもかかわらず、川崎球場のライトスタンドには記念のプレートが設置されたほどだ。

700号を過ぎると、今度は「野球の神様」ことベーブ・ルースの通算714本超えが世間の話題になる。同年10月11日、後楽園球場で行われた阪神戦で、王は山本和行から通算715号(この年48号)を放った。このときも「王、ついにルース超え!」と大きく騒がれた。この時点で世界歴代2位。次なる目標は、アーロンの755号超えしかない。

1977年、通算716本で開幕を迎えた王は、あと40本に迫った世界新記録へのプレッシャーと戦いながらシーズンを過ごすことになった。この年、王はなかなかホームランが出ず、5月終盤にようやく10号、という状態。「今シーズン中の世界記録達成は無理」という声も出る中、さすがは王、7月12日から5試合連続本塁打と復調。8月31日の大洋戦で三浦道男からこの年39号となる通算755号を放って、ついにアーロンに並んだ。

さあ、あと1本……。当時の狂騒ぶりは今もよく覚えている。この年10月から東京-サイパンの路線をスタートさせた米・コンチネンタル航空は、PRを兼ねて「756号を打たれたピッチャーにサイパン旅行を進呈」と打ち上げて話題を呼び、福田赳夫内閣も王の偉業を讃えるべく、8月30日に「国民栄誉賞」の新設を閣議決定。けっして誇張ではなく、日本中が王の一発に期待する、まさにそんな状況だった。

9月1日の大洋戦、2日のヤクルト戦で王はノーアーチに終わったが、ついに「その日」がやって来る。3日、後楽園球場で行われたヤクルト戦。ヤクルトの先発投手は鈴木康二朗だった。189センチの長身右腕・鈴木はシンカーが武器の技巧派で、この年14勝を挙げている。試合前、捕手の八重樫幸雄と「逃げずに、シンカーで勝負しよう」と話し合い、真っ向から王に立ち向かった。

王の第1打席は四球となったが、3回に第2打席が回ってきた。鈴木は慎重に投げ、フルカウントからの6球目。「2打席連続で四球は避けたい」という意識があったのか、外角を狙ったシンカーが真ん中、ベルトの高さに甘く入ってしまう。王は見逃さずバットを振り抜くと、打球は右翼スタンド中段に吸い込まれていった。珍しくバンザイをしながらベースを一周した王。打球が舞い上がった瞬間、「これで騒動が終わる」とホッとしたという。王もやはり人の子だった。

王はその後も112本のアーチを積み重ね、1980年、通算868本で現役を引退。この年、30本塁打を放ったにもかかわらず、自分が理想とする打撃ができなくなった、と潔くユニフォームを脱いだのはいかにも王らしかった。一方、「756号を打たれた投手」として球史に名を残すことになった鈴木は、サイパン旅行を辞退。「もしこれで自分が潰れたら、王さんが1人の投手を殺したことになる」と奮起し、翌1978年、13勝を挙げてヤクルトの初優勝に貢献している。

<チャッピー加藤>

元記事で読む
の記事をもっとみる

注目コンテンツ