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かつての高校野球の名門「池田高校」――その名物監督・蔦文也の人物像に迫る。当時の部員が記した監督を批判する文書とは【書評】

  • 2026.7.29
監督、神になる 池田高校 記憶の衝突 田中仰/文藝春秋
監督、神になる 池田高校 記憶の衝突 田中仰/文藝春秋

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高校野球の世界では、時を超えて語られる伝説的な学校がある。徳島県の県立校、池田高校はその筆頭。甲子園大会で優勝3回、準優勝2回、ベスト4入り3回という成績はさほど驚くべき記録ではない。だが、それ以上に池田高校にはマニアックな野球ファンのみならず、一般大衆をも酔わせる圧倒的な魅力があった。

その名を知らしめたのは甲子園出場2回目の1974年だ。部員わずか11人で準優勝をなし遂げた「さわやかイレブン」は、優勝校そこのけの大人気。80年代初頭には、高校野球の定番「堅実な守備と手堅い攻撃」とは真逆の、豪快に打ちまくるパワー野球「山びこ打線」でのし上がった。田舎の公立校が、都会の名門私立を撃破する構図もドラマ性抜群。

さらに、何よりすごいのがチームを指揮する蔦文也監督のキャラ立ちだったのである。

がっちりした体躯に無造作なシルバーヘア。大の酒好きで豪放磊落。マスコミを前に冗談を交えて饒舌に語り、ときに「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」などと胸を打つ名セリフをポンと吐く。「攻めダルマ」の異名といい、マンガの登場人物のようである。

しかし、1992年に蔦が監督を退くと池田高校はとたんに低迷する。強豪校は監督一人で指導しているわけではないはずだが――では、池田高校はなぜ勝てなくなったのか。蔦の影響力とはどんなものだったのか。

蔦監督は英雄なのか? その人物像に迫る

本書『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)の著者である田中仰が、最初に徳島県を訪れたのは2025年の夏。蔦は2001年に物故している。

親族はじめ蔦をよく知る関係者を当たった著者は、衝撃的な歴史の遺物に出会う。池田高校全盛時のスタッフで最終的に蔦と袂を分かった元コーチから手渡されたのは、当時の選手がしたためた蔦を批判する文書だった。練習をほったらかし、講演会で荒稼ぎする蔦に失望した高校生は、この手記をマスコミに持ちこむつもりだったというのだ。

この件を盛りこんだ記事は「Number Web」で発表されるや大反響を巻き起こす。「告発」の内容のみをセンセーショナルに扱った内容ではなかったが、著者はその反響の大きさに驚き、改めていまだに衰えない蔦の人気を実感する。

そして、さらに深く蔦という人物に向き合わなければならないという責任感に動かされ、再び徳島県に向かう。これが本書の〈発端〉である。

日本中の人々から愛された蔦は、今なお地元の英雄であり続けている。一方で「“零細企業”の爺さん」「金好きな欲望ジジイ」と評する人もいる。「池田高校は蔦の力で勝てた」という声もあれば「野球は素人」という声もある。同じ人の証言の中にも、相反する感情が見て取れる場合もある。

取材対象者の言葉だけでなくその人物の服装や風貌、表情や動作まで微細に綴る著者の姿勢からは、どんな小さい情報にも目配りをして真実をくみ取ろうという誠実さが伝わってくる。「あなたは蔦をどう解読しますか?」と問われている気分にもなるのだ。

1923年生まれの蔦は少年時代に野球を始め、3度の甲子園大会の出場経験を持つ。社会人野球、短いプロ野球選手時代を経て27歳のときに池田高校の教諭となっている。大学時代に学徒動員で召集され特攻隊員となり、奇跡的に出撃を免れた。

時代背景を鑑みながら、自分の中で蔦文也の姿が少しずつ像を結んでいく。その過程を楽しむ本である。

文=粟生こずえ

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