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記憶が交わる、身体が躍る──。美学者の伊藤亜紗×ダンサー・俳優の森山未來が対談

  • 2026.5.20
左:俳優でダンサーの森山未來。右:美学者で東京科学大学教授の伊藤亜紗。 GION

森山未來(以下、森山): 伊藤さんの『記憶する体』を面白く拝読していました。今も障害のある人の研究を続けているのでしょうか。

伊藤亜紗(以下、伊藤): それも続けているのですが、現在は言葉から離れたい気持ちになっていて。身体の研究を言葉でしていることの苦しさがあるんです。それで言葉をすべて取っ払ったら身体はどう感じるかを考察しています。

最近、月に一度くらい静岡にある重度の知的障害の方たちの施設に通っていて、そこでは言葉によらない場が生まれている感じがして幸福感があるんです。施設にいる人のほとんどは言葉を発しない方々。そういう方と言葉を使わずにどうやって仲良くなるか。自分なりのコミュニケーションを探しています。

森山: どういうコミュニケーションがあるんですか?

伊藤: たとえば机に手を置いていると、指先から1ミリくらい間を開けて自分の手を置いてくる人がいるんです。そういう感じで少しずつ仲良くなっていくと、次第に手を合わせてくれるようになる。その手は非常に繊細なので、感覚からものすごい量の情報が細かく入ってくるんだろうなと思っていて。常に情報が多すぎる身体なのかなと。

森山: 指紋はすごく優れていて、高機能だといいますよね。

伊藤: そうなんですね。だから1ミリ手を重ねる行為で十分くらいの感動がある。そういうレベルで世界を見る人から学ぶことが多くて。

森山: 一般的に視覚や聴覚は共有しやすいですが、味覚や嗅覚、触覚は主観的な感覚だといわれていますよね。

伊藤: 嗅覚の研究で、誰かと握手した後の人は無意識に手の匂いを嗅いでいるみたいですよ。視覚優位だと思っていても、嗅覚や触覚から情報を得るとか、意外とそちらに頼っているのかもしれません。

森山: 匂いの要素は微生物が発している成分らしいです。僕らの身体は微生物に覆われていて、人間はそれをいろいろな器官を使って交換したがる。まさに嗅覚や触覚から情報交換が始まるんです。

❝音楽はコミュニケーションツールとしての役割が言葉とは違っている。おそらく身体もそう。言葉はロジカルな情報交換ツールで、音や身体はもっと直感的なのかな❞(森山未來)

伊藤: 握手した手の匂いを嗅ぐのは微生物を取り込んでいるのかも。森山さんのダンスの言語は、どのようなものなのでしょうか。

森山: 言語ということでお話しすると、たとえば歌手の西城秀樹さんは病気の影響で発話が難しくなり、それ以降スムーズな言葉のやりとりが困難になったそうです。でもご自身のライブでリズムやメロディーに乗ると言葉がすらすら出てくる。音楽が持つコミュニケーションツールとしての役割は言葉とは違っている気がします。おそらく身体もそうではないかと。言葉はロジカルな情報交換ツールで、音や身体はもっと直感的なのかな。

伊藤: 学生時代からずっと抱えている研究テーマで、リズムに乗るときの“乗る”というのがあります。これは人をケアすることの最も原初的な形じゃないかと思っていて。たとえばお年寄りに言葉で「12時だからごはんを食べに行きましょう」と誘っても、相手がその気ではなかったら行かない。でも乗せてその気にさせる。論理的じゃないレベルで身体をその状態にしていくことがケアの大事な仕事かなと。

森山: たとえば「あっち向いてホイ」みたいな、やっているうちに身体がついていってしまう“乗る”も、ケースとしてはあるんでしょうか。

伊藤: それもあると思います。私もそうなんですが、吃音(きつおん)のある人は乗っかるものがあると吃らなくなる。さっきの歌うときに言葉が出てくるとか、自分の外側に基準があって、それと共同作業をするとうまくいく。その外側の基準を作るのがケアなのかなと思っています。

❝身体が関わるコミュニケーションより、むしろデジタルの情報のほうが先に消えて、身体のほうが何百年という時間を背負っている気がしています❞(伊藤亜紗)

森山: 少し話は変わります。日本の踊りの起源は諸説ありますが、神楽や能狂言、お祭りなどが古くからありますよね。今ではそれぞれが鑑賞するものとして認識されている部分もあるとは思いますが、神楽や能楽はそもそも土地や神に奉納するものであり、対象は観客ではないんです。盆踊りなどのお祭りも本来鑑賞するものではなく、参加してともに踊るものです。そう思うと日本において観客の前でパフォーマンスをするということはどういうことなのか。最近はその齟齬(そご)について考えます。

たとえば、2024年に岡山県の奈義町で「森の芸術祭 晴れの国・岡山」に参加しました。そこでは最終的に祭り全体をプロデュースさせていただく形になりました。昨年は瀬戸内国際芸術祭に参加しましたが、そこでも昔からそこで暮らしている住民や移住者のみなさんとともに、島の祭りを新しく提案するといったパフォーマンスを製作しました。一般的な観客に向けたパフォーマンスを意識しない作品が続いたんです。

伊藤: それは、神に奉納するものという意識はありながら、とりあえずひとつ形は作っておいたということですよね。そういう人生を超えたスケールの時間に対して、アクションを起こしているんでしょうか。

森山: そこまでの遠い時間軸で考えてはいないのですが…。芸術祭ではもちろんアーティストが外部から招かれますよね。彼らは一定期間滞在してリサーチや創作をし、いつか帰ってしまう一過性の存在です。僕は折口信夫の“まれびと”(祝福などをもたらす異界からの来訪者)の概念を心に留めていて、結局一定の時間だけ通り過ぎるしかないのだけれど、歴史上そういう人たちが村や地域の文化や生活習慣を混ぜて変えていったという記録や考えのもとに、開き直って僕もそういう意識で参加させてもらうようにしています。

伊藤: 身体が関わるコミュニケーションは一般的にはライブ性が高いといわれますが、むしろデジタルとかの情報のほうが先に消えて、身体のほうが何百年という時間を背負っているのではと思うことがあります。生きることと混ざりながら伝承されてきたものが身体のコミュニケーションだとすると、そのほうがすごく時間がある気がして。

私の研究でも、たとえばインタビューする相手の方が30年間難病を患っているとすると、30年分の紆余(うよ)曲折が結晶化した言葉を聞いていることになる。それを受け取るとはどういうことかと常に考えざるを得ないんです。私も旅人だからそれが何かわからない。でもわからないからこそできる関わり方を考える。私はこう受け取りましたということを、違う形で示すほうが関わる理由ができる気がします。

森山: 60年くらい前の話ですが、1950〜60年代に日本で始まった暗黒舞踏で、オリジネーターの土方巽や大野一雄が舞踏譜と呼ばれるスコアを残しました。それは文字で書かれていますが非常に抽象的なんです。実際に振り付けをしている様子の再現を拝見したことがあるのですが、踊り手の耳元で土方がずっと何かを言っている。たぶん具体的ではない詩的な表現で、どんどん耳に入れていく。すると次々に入ってくる言葉を解釈して、どう動かそうかと思考するうちにバグを起こしてひとつの身体表現になる。言葉がそのように身体に作用するのは興味深い。

伊藤: 詩的表現というと、スポーツ選手も言葉で独自のイメージを持っていますね。陸上選手がスタートの感覚について「その辺に100円玉が落ちているのを拾う感じ」と言っていて。それは50円玉でも500円玉でもダメらしい。つまり膝を45度に曲げるとかの具体的な言葉ではない。詩的な表現には一見情報がないように思えますが、実はそういう言葉のほうが複雑な身体の「こうあってほしい」という形みたいなものをひとまとめにして持ち運べるのは面白いです。

森山未來: 俳優、ダンサー。1984年生まれ。俳優として、これまでに映画賞を多数受賞。東京2020オリンピック開会式にてオープニングソロパフォーマンスを担当。「関係値から立ち上がる身体的表現」を求めて国内外で活動を展開している。ポスト舞踏派。

伊藤亜紗: 美学者。1979年生まれ。東京科学大学未来社会創成研究院DLab+ディレクター、リベラルアーツ研究教育院教授。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)など著書多数。近著に『体の居場所をつくる』(朝日出版社)がある。

Photographs by Gion、Text by Akane Watanuki、HAIR & MAKEUP: MOTOKO SUGA (MIRAI MORIYAMA)

Editor: Mina Oba From Harper's BAZAAR June 2026 Issue

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