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クリスティーヌ・ナジェルが紡ぐ「エルメス」の「庭」の美学|香りは記憶と感情のかたち

  • 2026.5.12
〈右〉©Lee Whittaker〈左〉©Studio des fleurs

調香師クリスティーヌ・ナジェルさんは2026年、「エルメス」の香水クリエーション・ディレクターに就任して12年を迎えました。その歩みのなかで培われた香りの美学、そして最新作《珊瑚礁の庭》についてインタビューしました。

ポリネシアの珊瑚礁から着想を得て描き出した、空想の庭の香り《珊瑚礁の庭》。自然の記憶と内なる感情を重ねて、目に見えない風景を描き出す──。その創作の源を繙きます。

クリスティーヌ・ナジェル
調香師、「エルメス」の香水クリエーション・ディレクター。スイス・ジュネーブに生まれ。ジュネーブ大学で有機化学を学んだのち、スイスの香料会社「フィルメニッヒ」の研究開発センターに入所し、クロマトグラフィー部門で香水素材を分子レベルで分析する方法を習得した。香りの世界に深く触れるなかで調香師という仕事に出合い、調香師ミッシェル・アルメラックに師事。1997年にはオランダ系大手香料会社「クエスト・インターナショナル」へ。2000年には世界最大手の香料会社「ジボダン」へ移り、ラグジュアリーメゾンの香水の創作に携わった。2014年に「エルメス」の専属調香師として迎えられ、2016年現職に就任。科学的素養と独創性、謙虚さと情熱を併せ持ち、素材への深い愛情を軸に、まるで絵を描くように香りを創造する調香師である。これまでに数々の名香を手掛け、日本でも高い人気を誇る。


1|この10年を振り返って

──「エルメス」で調香を手掛けたこの年月を振り返って、印象的だったことやご自身の変化など、いま思うことを教えてください。

「私は2014年に『エルメス』で仕事を始め、2016年に『エルメス』の専属調香師になりました。当時はメゾンの仕事をしたいという強い思いがあり、『エルメス』こそが夢に描いた場所でした。

無駄のない美を追求するこだわり、確かな本質、卓越性への希求──。こうした『エルメス』の価値観は、自身の感覚にぴったりくるものでした。その夢が実現したときの喜びは、言葉では言い表せません。12年を経たいまも日々、この価値観を香りで表現できることを心から幸運に思っています。

『エルメス』の香りを創造するということは、その豊かな歴史、息づく伝統、広大な世界観と絶えず対話し続けること。メゾンは尽きることのないインスピレーションの源です。私たちが目指すのは、市場の慣習や移ろいやすいトレンドに囚われない、真摯な香水づくりです。時にそれは、流れに逆らうことを意味します。

ⒸAnne Brugni

香水《H24》を手がけたときは、メンズフレグランスの約80パーセントがウッディ系であるにもかかわらず、あえてボタニカルなシグネチャーを選びました。《ツイリー》では、若い女性向けに定番のスウィートノートではなく、生き生きと弾けるようなジンジャーノートを取り入れました。そして最近の《バレニア》では、シプレ・ファミリーを現代的な解釈で再構築しています。

この10年で業界は大きく変わりました。環境への意識が高まり、規制は厳しくなり、ジェンダーの境界は曖昧になっています。しかし私は、こうした変化を障壁とは捉えていません。むしろ、創造性を発揮できる大きな機会だと感じています。従来のやり方を見直し、新たな可能性を探るよう促してくれているのだと──。

この10年を振り返ったとき、私にとって最大の糧となったのは、常に自己を超えていける環境に身を置けたことでしょう。内なる感情を香りに託し、人と分かち合えること。それは私にとってこの上ない喜びです。『エルメス』での感情の探求は、稀に見る創造の自由に根ざしています。自由であるからこそ、私は日々高みを目指し続けられるのです」

ⒸJean-Marie Binet

2|受け継ぐもの、変えていくもの

──就任前の「エルメス」には、それまでにジャン=クロード・エレナ氏(2004年~2016年「エルメス」初代専属調香師を務めた)が築いたブランドの香りの方向性があったと思います。ご自身が着任して“変わった点”“変わらない点”はどこだと思いますか?

「私は『エルメス』に来てから、ジャン=クロード・エレナやそれ以前の調香師たちが残した素晴らしい創作に出合いました。それらを心から敬愛しています。ただ、私たちは一人一人異なるスタイルをもっているのも事実です。

ある日、なぜ私を選んだのかをピエール=アレクシィ・デュマ(『エルメス』のアーティスティック・ディレクター)に尋ねたことがあります。彼は、“あなたは『エルメス』の最も官能的な側面を体現していると思う”と答えました。

彼はまた、“『エルメス』の香水は歴史にしっかりと根を張る一本の木であり、その枝々が、これまで『エルメス』で香りを創ってきた調香師たちなのだ”と語ってくれました。“ジャン=クロードと同じように、あなたもその一人になる。あなたは葉を茂らせていくのだ”と──。

だからジャン=クロードと私は同じファミリーに属しているのだと思っています。私たちはそれぞれ『エルメス』の異なる一面を表しているけれど、どちらも等しく『エルメス』そのものなのです」

ⒸAnne Brugni

3|エルメスで香りを作るということ

──調香師として「エルメス」で調香に携わる喜びややりがいはどんなところにありますか?

「調香師として『エルメス』のために香りを作る、それ自体が大きな喜びです。初めて手にする『エルメス』のオブジェ、つまり『エルメス』への入り口が香水である方々も多くいます。だからこそ、ひとつのフラコン(香水瓶)と香りがメゾンの価値観すべてを宿していなければなりません。

私は『エルメス』に来て、驚くほどの創造の自由を与えてもらっています。テーマは自分で選び、ブリーフ(ターゲットや目標、予算や納期の指示書)を与えられることもなく、時間をきちんとかけることができます。この自由があるからこそ、強い物語性、意外な素材を用いた表現、新素材の探求など、香りを通して新たな視点や世界を切り開いていくことができます」

ⒸJean-Marie Binet

4|オーセンティックであるとは?

──資料でナジェルさんの信条は“オーセンティックであること”と拝見しました。この信条をもう少し詳しく教えてください。

「私の香りの創作は2つの出発点から始まります。ひとつは感情。私自身が実際に体験したものであり、同時にメゾンの歴史と響き合うと感じられるものです。

そしてもうひとつが原料です。新しい、あるいは強く心を惹きつけられる原料がなければ、私の創作は始まりません。感情にふさわしい香りを生み出せる原料に出合えたとき、私は初めて創作に取りかかることができます」

5|《珊瑚礁の庭》、調香の始まり

──《珊瑚礁の庭》の着想の出発点を教えてください。

「ポリネシアは長いあいだ私にとって憧れの場所でしたが、実際に訪れてみると想像をはるかに超えていました。ティアレの花に覆われた山々、空と海が溶け合うような澄みきった青、そしてタハア島のラグーンの下に広がる色鮮やかなサンゴ礁──そのすべてに心を奪われました。ダイビングをしながら、水中で香りを感じられないことにふと悔しさを覚え、この島だけの香りを作ろうと決めたのです。

帰国後は、私が目にした風景とそのときの胸の高鳴りを原料に混ぜ合わせ、目に見えない体験を、感じ取ることができる香りへと昇華させていきました。開発プロセスでは何度も調整を重ね、目指すものに限りなく近い嗅覚表現として確立しました」

ティアレの花やタマヌナッツ、ミネラルやマリンノートが軽やかに広がる香り。タヒチのタハア島周辺の美しい海に着想を得て調香されています。《珊瑚礁の庭》オードトワレ[100㎖]21,560円、[50㎖]15,950円、[30㎖]10,780円、[15㎖×4本セット]20,680円 Ⓒstudio des fleurs

6|香りで描き出す“海中の庭園”

──《珊瑚礁の庭》のこだわり、ご自身の気に入っているポイントを教えてください。または調香で苦労した点などエピソードはありますか?

「本来存在しえない現象を香りで再現することは、非常に大きな挑戦でした。とりわけ、この香りの着想の源となった“海中の庭園”を香りで表現することは簡単ではありませんでした。なぜなら、想像の中に存在する香りを“再現”する──つまり何もないところから何かを生み出す必要があるからです。まるで油彩画を描くように、香りを作り上げていかなくてはなりません。

私はティアレの花やタマヌナッツといった稀少な天然素材を選び、そこにミネラルのノートや、海の香りを思わせるフレッシュなニュアンスを加えることで、奥行きのある重層的な嗅覚風景を作り上げました。

ⒸJean-Marie Binet

エルメスが誇る豊富な原料アーカイブと、特許を有する神秘の素材を頼りに、限界を乗り越えていきました。単なる潮風の香りでは満足できなかった私は、画家が色を混ぜ合わせるように、素材同士をぶつけ、融合させることで、岩礁が呼吸するような感覚を生み出し、自然と革新の絶妙なバランスを実現しました」

7|季節と香り。日本の夏に楽しむ

──日本は「四季で香りの楽しみ方が異なる(高温多湿の夏や乾燥して寒い冬では香り方が変わり、喜ばれる香りも変わる)」ことが顕著です。ナジェルさんは調香で季節と香りについて意識することはありますか?

「香りにはそれぞれ物語があり、ときにはある種の季節性も宿しています。2019年に《ラグーナの庭》を創ったときは、幸運にもヴェネツィアにあるその庭を一年のさまざまな時季に訪れることができました。変化していく空気感や光、そして花が次々と咲き移ろっていく様子を体験したのです。その香りは、そうした多様性を映し出しています。つまりすべての季節を想起させる素材が織り込まれているのです。それは固定された香りではなく、生きている香りといえるでしょう。

一方、最新作の《珊瑚礁の庭》は、最初の印象は春のみずみずしさや夏の澄んだ空気を自然と想起させるかもしれません。弾けるような明るさがあります。しかし一度でそのすべてを語ることはできません。肌にのせるとほのかに潮の香りが立ち上り、繊細に包み込むような官能性をもたらして、より深い側面が姿を現します。

私にとって、より官能的なこの内なる側面は、季節という概念を超えたところにあります。それはむしろ、感情の領域にあります。夏に楽しもうとお考えの日本の皆さまには、ひとつシンプルなアドバイスをお伝えします。肌にのせて香りを休ませ、時間とともにどう変化していくか感じてみてください。分かりやすい爽やかさのあとになお、ひとつの季節にとどまらない奥行きがあることにきっとお気づきになると思います」

イラスト=齊藤木綿子

8|最後に。記憶に残る香りとは

──私は長年愛用している“私の香水”にナジェルさんの作った香りがいくつも並んでいて、もう廃盤になった30年近く前の香水ももっています。(つまり個人的に大ファンなのです!) こうして長くファンを魅了し続ける調香の個性、そして成功の秘密はどこにあると考えますか?

「もし成功への鍵を持っていたら、毎日使っているでしょう(笑)。でも実際は、私は成功という観点では物事を考えていません。大切にしているのは誠実さと探求です。

仕事の面では、完全な自由が許される計り知れない幸運に恵まれています。この自由があるからこそ、自分の直感に従い、ときには予想もしなかった領域へと踏み込んでいくことができるのです。

私はとても好奇心が強いのですが、化学を学んだバックグラウンドがそれをさらに後押ししています。天然の原料と同じくらい、バイオテクノロジー由来の素材にも強い興味があります。それらを組み合わせ、コントラストや新たな調和を生み出すことが好きなのです」

ⒸAnne Brugni

「また、香りはすぐにそれと分かるものであるべきだとも思っています。痕跡を残し、存在を主張し、他と区別できること。記憶に残る香りとは、強いアイデンティティをもつ香りです。それは何よりも、原料に対する厳格な基準と品質によって実現されます。原料こそが要なのです。この厳格さと絶え間ない卓越性への探求がなければ、感情をかたちに残すことはできないでしょう」

取材を終えて|感動の世界に触れる旅

ナジェルさんが語るように、香水とは単なる“香り”ではなく、体験や感情を呼び覚ます“スイッチ”ともいえるもの。《珊瑚礁の庭》に込められたのは、ナジェルさんが南の島で出合った光や水の記憶、そして言葉にならない感動でした。

その香りは、使い手の脳裏にナジェルさんの出合った景色を再現し、私たちを未知なる旅へと連れ出してくれるかのようです。日常に非日常をもたらし、いつでも自由に自分だけの時間を取り戻す。この香りにはそんな身軽な楽しみ方があります。

『婦人画報』2026年6月号より大幅加筆

編集・文=松永裕美(『婦人画報』編集部)

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