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市場の片隅にたたずむ:朱喜哲「バザールとクラブの哲学」Vol.8

  • 2026.5.13
市場の片隅にたたずむ:朱喜哲「バザールとクラブの哲学」Vol.8

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朱喜哲

ちゅ・ひちょる/1985年大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『人類の会話のための哲学』『〈公正〉を乗りこなす』『バザールとクラブ』『100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」』などがある。26年5月、初となる新書『バラバラな世界で共に生きる』(NHK出版新書)を刊行。

見つけるのが難しい、売り買いができない「商品」でないもの

こどものころよく図書館に連れていってもらった。

貧しい家だったから、本を買いあたえることはむずかしかったのだろう。毎週のように図書館に行って、たくさんの本を借りた。返却期限までにぜんぶ読んで、また次を借りる。そのサイクルが、ひとつ生活のリズムになっていた。

図書館というのは不思議な場所だ。

そこには本がたくさんあって、しかし、それは誰のものでもない。
ここまでのことは、書店だって同じなのだけれど、図書館の本は誰のものになることもない。それは「商品」ではないのだ。あえて言えば「みんなのもの」としてそこに並んでいて、誰かに借りられて、また返される。

わたしたちの身のまわりに、「商品」でないものはめずらしい。

お店に並んでいるものではないとしても、ほとんどのものには値段がついていて、それは潜在的に商品でありうる。そうでないとしたら、それは「みんなのもの」か「誰のものでもない」か「そもそも売れないもの」ということになる。

たとえば公営図書館の本はひとつめで、それは公費で購入された「みんなのもの」だ。土地や自然といったものは最初のふたつのどちらかになる。行政に管理された公園は「みんなのもの」だけれど、とくに管理もされていない「誰のものでもない」森や山もあるのだろう。

最後の「そもそも売れないもの」もしくは「売ってはいけないもの」には、たとえば個人の身体とか生命にかかわるものが挙げられる。身体の一部、意志に反する行為、あるいは感情。そういったものは基本的に「売ってはいけない」ものだ。それらは「自分のもの」であっても、自由に売り買いしてはいけない──ということになっている。

「なっている」と書いたのは、これが社会的なルール・法による規制であるからだ。かつては──あるいはいまも世界のどこかでは──ひと自体が「奴隷」として売買の対象となっていた。また、臓器や生殖機能などが売買されることは、違法なものも含めればありうる。もちろん、そこには「そもそも売れない」「売ってはいけない」ものを買いたがり、無法な値段をつけたり販売を強引に迫ったりする買い手の存在もある。

あるいはもっとカジュアルに、ひとの「感情」や「ケア」といったものも、いま「感情労働」とか「ケア労働」ということばがあるように、売り買いの対象になっているようにも思える。いろんなお店で、わたしたちが対価を払っているのは商品それ自体のみに対して、というよりは接客とか体験も含めたすべてに対してのことだろう。だから、同じものでも誰から買うか、が重要になる。

青森県・八戸で行政が手がける〈まちなか広場 マチニワ〉。その奥に日本初の「公設・公営の書店」である〈八戸ブックセンター〉がある。

売買されない公共空間を描いた、ハンナ・アーレントの「アゴラ」の比喩

いろんなものが、売り買いの対象になっている。売り買いの場を「市場(マーケット)」と呼ぶが、とりわけ売り手としての参加がも自由な市場を意味する「フリーマーケット」ということばはいま「フリマアプリ」として定着し、手元のスマホを介してずっと開催されている。
典型的な「みんなのもの」だった公園や公営の美術館・博物館などでも、「採算性」や「持続可能性」が問われ、民間資本を公募して商業施設を併設したり、商業イベントに転用可能なスペースとして再設計されたりしている。そこにも「市場」の要素や論理が、入り込んでいるのである。

こういう話は、よく「嘆き」とか「非難」というトーンで語られがちだ。

「商業主義にまみれている」とか「公共性が失われている」とか、そういったことばづかいが怒りをもって表明されるのを、見聞きしたことはきっとあるだろう。

わたしも、そう言いたくなるときもある。

身体や生命、感情にかかわるものについて売り買いの対象になることは、それを安易に「自分のものだから自由に決めてよい」とは言いたくない。自己決定ということばの響きはよいけれど、それを売らざるをえないのは往々にして追いつめられたひとだ。「みずから望んで」という条件は、とてもむずかしい。

また、公共の空間である「公園」や「広場」が民営化されていったり、民間に切り売りされていたりするのに接すると、とりわけ地元住民としては違和感や憤りを覚えることもある。行政が「みんなのもの」を売り払って財源や産業をつくろうとするとき、どんな意思決定プロセスがあれば「みんな」が納得できるのか。それもまたむずかしい。

「みんなのもの」や「誰のものでもない」ものがどんどんなくなっていって、あらゆるものに値段がついて、市場で売買される対象になる。それは、経済的な選択肢に恵まれないものにとってはやはり「自由」が制約されることではないだろうか。

ハンナ・アーレントという哲学者は、そういうことをいち早く嘆いていた。

アーレントは、公共空間のことを「アゴラ(広場)」という比喩で語る。アテナイなど古代ギリシアのポリス(都市国家)では、市民による自治がおこなわれていた。市民たちは神殿のあるアクロポリスの丘の麓にあるアゴラに集い、自由に政治参加する。民主主義の発祥──とよく言われてきた原風景だ。

けれど、このアゴラに自由に入れるのは、じつはごく一部のひとだけだ。男性で、家長で、納税者。それが「市民」の条件である。それ以外の男性やすべての女性、こども、そして奴隷たちといったひとびとは政治の場・公共空間である広場に立ち入る権利をもたない。生活から離れて政治参加する自由を奪われて「家」や「市場」といった場所で、生活の必要に追われながら働く。

じつは「プライベート」の語源は「奪われている」というラテン語に由来している。公共にアクセスする自由を奪われて、家庭に、生活に押し込められることが「私」のはじまりでもある。だから、アーレントは「公共的/私的」な空間のイメージを「アゴラ(広場)/家(生活の場)」として描きだす。

なぜ「バザール/クラブ」は、どちらもお店なのか

さて、本連載は同じイメージを「バザール/クラブ」として描いている。これは、アメリカ合衆国の哲学者リチャード・ローティのことばづかいである。アーレントの比喩と比較してほしい。「バザール(市場)」に「(会員制)クラブ」だから、どっちも「お店」なのだ。アーレントであればこれはどちらも「生活の必要に追われる場所」であって、私的なプライベート空間ということになるだろう。

そう、じつはローティの言う「バザールとクラブ」には、「広場」もなければ「家」もない。どちらも文字どおり市場的な空間である「お店」として、地続きに「公共/私」を語っている。ここまで連載を読んでくださった読者が気にしていたかわからないけれど、これはけっこう不思議なことだ。

ちなみにアーレント自身、ローティとはまったく関係なく「バザール」ということばも使っている。彼女曰く、古代ギリシアでは民主制を忌み嫌う僭主(独裁者)はつねに「アゴラをバザールにしようとした」のだと。市民が自由に政治参加する広場を、生活の必要がともなう市場に変えてしまい、商業的なにぎわいをつくりだす。そうすることで、市民たちの生活はうるおうかもしれないし、少なくとも政治への不満から目はそらせる。

経済が順調で、生活の見通しが立つならば、支配者におまかせでいいかもしれない。自分たちで責任をもって、お互いに対等な市民として政治にかかわる手間暇をかける必要はないかもしれない。

いつの時代も、「政治」を独占しようという支配者は、そうやって「アゴラをバザールに」しようとしてきたのだろう。

アーレントは1906年にドイツで生まれたユダヤ人。ナチスが台頭し、生命の危機に脅かされた彼女は1941年、35歳のときにヨーロッパを去り、アメリカに亡命する。以降75年に亡くなるまでアメリカで生活し、英語でものを書いた哲学者だ。

民主主義発祥の伝統を受け継いだヨーロッパを離れ、アメリカという資本主義の実験場のような国家に移住したアーレントは、この新天地では「アゴラがバザールに」されている」と嘆いたことだろう。アメリカという国は、その発端からずっと、さらに第二次世界大戦後には拍車をかけて、自由経済と資本主義の最先端であり続けてきた。

1931年に、アーレントとは25歳差でアメリカに生まれたローティは、最初からずっとこの市場経済のどまんなかで、それを当然のものとして育っている。だから、ローティが「バザールとクラブ」と言うとき、そこには「アゴラ(広場)」が――つまりアーレントにとっては真の公共的空間が――ないじゃないか、と批判されてもあまり意に介さないかもしれない。「自由な市場」の秩序が守られ、国民の生活の必要性を公正に担保すること。それ以上の政治の役割はありますか、と。

この問いは、学術的にはかなり重要なのだけど、この連載ではあまり深追いできない。

でも、おもしろい話なので、ちょっとだけ広げてみよう。

公共的な空間を、利害も信念も一致しないいろんなひとがつどう「バザール」として描き、私的な空間を、特定の価値観や美意識の一致する仲間うちの「クラブ」として描く。この見取図では、「みんなのもの」であるアゴラや、従来の区分ならもっとも濃密な「私の場所」であるはずの家・家庭はどう位置づけられるのだろう。

アーレントは怒ったり嘆いたりするかもしれないが、前者についてはもしかすると現代社会ではもはや当たり前なのかもしれない。ここまで書いたように市場原理が隅々にまでいきわたった社会では、そこから完全に自由な「広場」を考えることはむずかしい。

そもそもアーレントが正しく描写するように、古代ギリシアの都市国家で広場につどって自由に政治参加する「市民」とは、いわば特権階級だ。それも生まれた家や性別によってその特権が約束されている。彼らが「一人前」の市民として、生活の必要から解き放たれて自由に政治参加できるのは、家庭や市場といったプライベート空間に押しこめられて労働やケアに奔走する女性や奴隷たちの負担あってのことだ。

公共的な主体とみなされる「自立した一人前の男」は、要するにたくさんの見えなくされたケア労働に支えられて、はじめて成立している。ほんとうは、なににも頼らずに自立できているひとなど存在しない。みんなが、みんなに頼りながら、なんとか生きている。そういうことを見えなくさせてしまうという点で、「広場と家庭」のメタファーはまずいのかもしれない。

ローティ自身は、たぶん、こんなことはまったく考えていなかったと思う。

けれど、彼が使った「バザールとクラブ」というメタファーには、こういう隠蔽されて、押し付けられてきた「ケア」の場を開いて、しかもそれを「公的なバザール」から「私的なクラブ」まで、じつに多彩な場ではたらくものとして区別して、それぞれをたいせつに扱っていくためのことばづかいになる可能性が、あるかもしれない。

JR大阪駅前の一等地に緑地をつくった〈グラングリーン大阪〉。商業スペースと地続きの空間はアメリカ型の「広場/公園」を参考にしている。

人間生活を「市場」から考えると、見えてくるもの

では、このローティの図式で「家・家庭」はどう位置づけられるだろうか。

彼自身が語っていることはなにもないのだけど、おそらくバザール的な要素――家族だからこそ、深刻な利害対立や価値観の不一致もある――と、クラブ的な要素――それでもやっぱり基本的な価値観を同じくするからいっしょにいられる――とが混在した場所ということになるのだろう。逆に言えば、後者の一致点を確認しつづけたり、ちゃんと「バザール」モードも忘れないようにしたりしないと、「家族」という枠組はかんたんに崩壊する。

ちなみにローティの場合、あらゆる「本質」を全否定するから、「血縁」とかそういうものをもって「家族の証」などとすることは考えられない。もし「家族の絆」と呼べるものがあるとして、それはそれぞれ一対一の、それぞれ頼ったり頼られたり、けっしてバランスがとれているわけでもない人間同士の関係性でしかない。

そう。
パブリックとプライベート、人間生活のぜんぶを「市場」のメタファーから考えることは、アーレントのような公共論者や家族主義者なら嘆くかもしれないけれど、それはそれで説明できたり、考えられるようになったりすることが、たくさんある。

とくに、これまで「絆」とか「愛情」とかいったことばで、無償のものとされていたたくさんの労働やケアに、「しかるべき対価」という価値が設定しやすくなるという利点が、ある。

最後にほんのりと告白すると、わたし自身は「広場」も、「家庭」も、手放しに好きとは言えない。

ほんとうの「みんなのもの」や「誰のものでもない場所」ならよいけれど、「広場」を名乗っているのにじつは隠されたメンバーシップがあるというのは、仮に自分にその権利があるとしたって、居心地がよくない。

あるいは自分が生まれ育った「家」には、血縁だとか育ててもらった恩だとかいったものがあるとしても、それらを特権的な関係として、ほかの他者よりも質的に異なるものとして扱うことには、どこか正しくなさがあると思う。それぞれのひとと、敬意と互恵性のある関係性を築きたいと思う。いろんなひとと、頼ったり頼られたりする間柄でいたい。誰かの「思いやり」や「愛情」にタダ乗りして、それを当たり前のように享受したくはない。その恩恵を受けていると、とても気づきにくいことではあるけれども。

だから、ちゃんと対価が設定されていて、「お金を払える」ことには、それ特有の安心感も、ある。しかるべき対価を払って、お店の、市場の片隅に身を置いているとき、そこにちょうどよい、適正な居場所を得ているという、つかのまの居心地のよさがある。それはそれで大切なものだと思う。みんなに生活があり、限られたリソースを出しあって、ともに社会を営む。

だから、「お店」には、ちゃんとお店の倫理が、ある。
バザールにはバザールの、クラブにはクラブの倫理が、あるのだ。

日曜の早朝にだけ開催される八戸名物の〈館鼻岸壁朝市〉。日の出前から無数の人が行き交う。
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