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世界GP初挑戦で王者に! 本誌編集長 原田哲也「クールデビル」が1993年に成し遂げた快挙

  • 2026.8.28

世界GPフル参戦初年度の1993年、いきなりGP250クラスの世界チャンピオンに輝いた原田哲也。全日本時代に見せた鋭いライディングは、世界のサーキットを戦うなかで変化していったという。世界で「クールデビル」と呼ばれた原田は、どのように頂点へたどり着いたのか。イラストレーター松屋正蔵が、その走りと知られざる交流を振り返る。

※この記事は過去に掲載された内容をもとに、WEB向けに再構成しています。

世界GPフル参戦初年度で王者原田哲也の何が凄かった?

今回は1993年の世界グランプリ、GP250クラスでチャンピオンに輝いた原田哲也さんを描きました。世界グランプリでの異名は「クールデビル」です。

原田さんの凄さは、なんといっても世界GPフル参戦初年度にシリーズチャンピオンを獲得したことです。

あのバレンティーノ・ロッシ選手でさえ、フル参戦2年目での世界チャンピオン獲得でした。それを考えても、原田さんが成し遂げたことがどれほど凄かったのかが分かります。

その前年となる1992年、原田さんは全日本GP250クラスで、3年連続チャンピオンだったホンダの岡田忠之さんと毎戦のように熾烈な戦いを繰り広げ、見事シリーズチャンピオンを獲得しました。

そして翌1993年に世界グランプリへ。その勢いのまま世界チャンピオンまで獲得したわけですから、もの凄い偉業です。

全日本時代の原田さんのライディングには、特徴がありました。

減速から初期旋回まではマシンのセンター付近に頭がありますが、マシンが旋回して安定状態に入ると、イン側の肩から頭が「クイッ!」と内側へ入るのです。

現在のMotoGPにも通じる、先駆け的なライディングだったと僕は思います。

一方、そのレースでうまく乗れていない時や、ペースを抑えているような場面では、頭がそれほどイン側へ入りませんでした。だから原田さんが「今日は乗れているのか、乗れていないのか」は、そのあたりを見ていると分かるような気がしたものです。

ところが、戦いの舞台を世界へ移すと、原田さんのライディングフォームは変化したように見えました。

マシンのセンターから、頭が大きく外れなくなったのです。

これは、世界グランプリが開催される各サーキットの路面μ(ミュー)が低く、滑りやすかったからだと言われていました。

当時、西ヨーロッパのサーキットは、路面のアスファルトに使われている砂利が細かく、滑りやすいと一般的に言われていました。路面を手で触った時に、ザラザラしているのか、それともスルスルしているのか、という違いです。

そうした日本とは異なる環境に合わせ、ライディングも変化していったのでしょう。

さて、ここから少し話は変わりますが、僕と原田さんには個人的に思い出深いエピソードがあります。

1993年、原田さんが世界チャンピオンになった時、あるフリージャーナリストさんを通して、こんな話をいただきました。

「チャンピオン記念で原田くんの絵を描いてあげて!」

もちろん、即答でOKしました。

そして原田さんへ絵をお渡しした後、そのジャーナリストさんから思いがけないことを知らされました。

「じつは1992年に全日本チャンピオンを獲った時にも、松屋くんに絵を描いてもらいたいと言っていたんだよ!」

その話には驚きました。

それから時間がある時には、全日本時代の原田さんの絵をコツコツと描きためるようになりました。そして長い年月を経て、ライダースクラブ編集部を通じ、その描きためた絵を原田さんへお渡しすることができたのです。

何だか、ずっと残っていた古い約束をようやく果たせたような気持ちになりました。

わずかな時間ではありましたが、実際に原田さんとお会いしてお話をさせていただいた時の印象は、実に礼儀正しく、明るく、人柄の良さが表情にも表れているような方でした。

そんな原田さんが、世界のレースファンから呼ばれていた異名が「クールデビル」。

僕が実際にお会いした印象からすると、どうにも腑に落ちません。

「クールエンジェル」なら、まだ分からなくもないのですが……。

それでもサーキットへ出れば、世界GPフル参戦初年度で頂点に立ったライダーです。

全日本から世界へ舞台を移し、その環境に合わせてライディングを変化させながら、いきなり世界チャンピオンを獲得した原田哲也さん。その偉業と速さは、今振り返ってもやはり特別なものだったと思います。

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