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実家は100年超の老舗酒蔵の「人気俳優」芸能界入りする前の【意外な就職先】とは?

  • 2026.8.21
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佐々木蔵之介-2003年12月撮影(C)SANKEI

酒蔵の跡継ぎが選んだ就職先は、酒造会社ではなく広告代理店だった。実家の商品を売る方法まで学び、京都へ戻る。その道筋を描いていたのが、映画、ドラマ、舞台で主演を重ねる佐々木蔵之介である。

ところが入社から約2年半後、佐々木は会社を辞めた。理由は華々しいデビューの約束ではない。東京の劇団から届いた、一本の客演依頼だった。

家業のために身につけようとした「届ける仕事」は、俳優になった後も佐々木の判断の中に残っている。

酒を造る家で「売る」ことを考えた

京都で100年以上続く佐々木酒造の次男として育ち、神戸大学農学部で学んだ佐々木は、1992年に大手広告代理店へ入社した。酒造りを学ぶだけでなく、商品をどう売り、どう知らせるかまで理解してから家業へ戻ろうとしたのだ。

大学では劇団「惑星ピスタチオ」の旗揚げに参加していたが、演劇はまだ職業ではなかった。当時は俳優で食べていくつもりはなく、家業のためにまずは広告の現場を選んだ。蔵元の息子が選んだのは、造り手になる前に、受け手までの道筋を知ることだった。

俳優として多くの作品を背負う現在から見れば、この選択には佐々木らしい視野の広さがある。目の前の一役だけではなく、その作品が誰に届くのかまで見渡そうとする視線である。

資料室の台本と、退社後の稽古

会社では広告の仕事をし、終業後は稽古場へ向かった。資料室で台本を開くこともあったという。同期入社には、後に「ますだおかだ」として芸人になる増田英彦がいた。二人が同じオフィスで働いていた時点では、俳優と芸人として再会する未来など見えていない。

それでも佐々木は劇団を離れなかった。東京の劇団から、1か月の稽古と2か月の本番を伴う客演を依頼されたとき、会社との両立はできず、いったん断ろうとした。そこで湧いたのが「まだ終わらせたくない」という気持ちだった。

成功の見込みではなく、芝居を終わらせたくないという実感に賭け、佐々木は会社を去ったのだ。客演を受け、惑星ピスタチオの看板俳優として舞台に立ち続けた。

演技だけで終わらない俳優

1998年に劇団を退団して上京し、2000年放送のNHK連続テレビ小説『オードリー』で広く知られるようになった。2006年公開の映画『間宮兄弟』では映画初主演。小劇場から映像へ移っても、舞台の仕事を手放さなかった。

佐々木は広告代理店での営業や企画の経験について、俳優になってからも「興行」を意識していると語っている。撮影や上演の場で演じるだけでなく、取材を受け、作品の面白さを伝え、観客に足を運んでもらうところまでが仕事。その発言には、会社員だった時間が明確に息づく。

作り手の情熱だけでは作品は届かない。佐々木は主演を担うときも、その現実から目をそらさない。現場がこの俳優に大きな役を託してきた理由の一つは、作品全体を背負う姿勢にあるのだろう。

継がなかった蔵と、熟成する舞台

実家の酒蔵は三男の弟が継いだ。佐々木は2011年、日野自動車のCMで父と共演し、佐々木酒造を舞台にした映像に立っている。家業とは別の仕事を選んでも、蔵との往来は続いた。

幼い頃から酒造りを見てきた佐々木は、「ものづくりは一人ではできない」と語る。舞台も、初日から千秋楽へ向かって熟成していくという。2025年にはひとり芝居『ヨナ-Jonah』を欧州6都市で上演したが、ひとりで立つ舞台も、演出、技術、制作、観客がそろって初めて成立する。

家業のために広告代理店へ入り、俳優になるためにそこを辞めた。その両方で知った「作って、届ける」仕事を、佐々木は一つの舞台に注ぎ込む。客演一本を断ち切れなかった青年は、海を越えた劇場で、幕が上がる瞬間を待った。


※記事は執筆時点の情報です

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