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村上春樹はずっと出口を探し続けている。1980年「文學界」に発表された作品をアップデートした『街とその不確かな壁』で描かれる壁の役割とは【書評】

  • 2026.7.21
街とその不確かな壁(上) 村上春樹 / 新潮社
街とその不確かな壁(上) 村上春樹 / 新潮社

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村上春樹の長編小説は数多くあれど、『街とその不確かな壁』(新潮社)ほど紆余曲折を経て完成した作品は他にないだろう。

この作品は元々、1980年に『文學界』の紙面上に発表された『街と、その不確かな壁』という中編小説が核になっている。まだ専業作家ではなかった村上春樹が多忙の中書き上げたのがこの作品なのだが、その出来に本人は納得していなかったという。そのような経緯があったため、この作品は書籍化されていない。

その後、専業作家となり『羊をめぐる冒険』を書き上げたあと、『街と、その不確かな壁』を大幅に書き直し、上梓したのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』である。

だが、『街と、その不確かな壁』という物語が喉に刺さった魚の小骨のように気になり「異なる形の対応があってもいいのではないか」と思い始め、最初に発表した時からちょうど40年の年に村上春樹は再びこの物語と向き合うことになった。

それほどまでに村上春樹にとって大事な物語なのだが、その骨格は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の姉妹編だと思ってもらって差し支えないだろう。

「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」で分けられていた二つの世界が今回は「壁の内側」と「外側」に分けられている。

ここであらすじを紹介する。

物語はエッセイ・コンクールで知り合った17歳の「ぼく」と16歳の「きみ」が想いを寄せ合い、デートをしている場面から始まる。そこで二人は壁に囲われた街についての話をする。「ぼく」は「きみ」を失うが、彼女のことが忘れられないまま都内の私大に進学し、書籍の取次会社に就職する。40代半ばになった「私」はある日、壁に囲まれた街に入り込み、自分の「影」だけを壁の外に出し、自身は「街」にとどまることを決意する。

壁の外に戻った「影」である「私」は東京の会社を辞め、福島県にある小さな図書館の館長になる。そこで前館長の子易さんや図書館に通うイエローサブマリンのパーカーを着た少年らと出会う。ある日少年は壁に囲まれた「街」に行きたいと言い、失踪してしまう。壁に囲まれた街で影のないイエローサブマリンのパーカーの少年に出会った主人公は自分がしていた「夢読み」の仕事を託し、物語は終わる。

軽くあらすじを追うだけではなかなか本質が掴みにくいかもしれないが、本作は壁に囲まれた街の正体が序盤に明かされている。

影の言うとおり、この街には作り話が満ちているかもしれないし、成り立ちは矛盾だらけかもしれない。それは結局のところ、私ときみとが二人で一夏かけてこしらえた想像上の、架空の街に過ぎないのだから。

その街では人々は影を持たない。時計はあるが時間の概念はなく、図書館はあるがそこに書物はない。そう、この物語の大枠は「ぼく」と「きみ」が作り上げた想像上の世界で展開されるのである。だからそこに整合性だとか辻褄といった物差しを挟み込む余地はない。それでもなんとか読み解こうと躍起になるのは賢明な読者とは言えないかもしれない。

この作品でも村上春樹のリーダビリティの高さと物語の推進力の強さは健在で、読者は小説の世界にぐんぐん引き込まれていく。そして、展開の中にもモチーフの中にも今までの村上春樹作品との繋がりが感じられるという点でもファンには堪らない小説となっている。そういう意味では、現状この作品は、村上春樹の集大成と言えるのかもしれない。

「もしこの世界に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ。誰にもこの壁を越えることはできない。誰にもこの壁を壊すことはできない」

この門衛の言葉からもわかるように「完全なもの」とまで断言した壁が「不確かな」ものになっていく過程を描いた小説とも読める。

この感覚は、デビュー作『風の歌を聴け』の冒頭にある「完璧な文章などといったものは存在しない」という文章から出発し、いくつもの文章を紡いできたという二律背反な事象に対する姿勢に似ている気がする。

さらに『ねじまき鳥クロニクル』でも見られた箱庭的にエピソードを配置していく手法も健在で、「夢読み」や「影」、「単角獣」などの謎めいたモチーフが点在していて、そのすべてに明確な説明はなされていない。

また、少年期の主人公と少女のやり取りからは『ノルウェイの森』に近い危うい恋人の距離を感じることができる。

このように村上春樹の過去作を読んでいればいるほど、濃縮された世界観に心地よさを感じ、また圧倒されてしまうのではないだろうか。

村上春樹がこの作品をどういったスタンスで書き進めたのかを暗示しているような箇所がある。それは主人公と親密な仲になるコーヒーショップの女性がガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を読んでいる場面での主人公の台詞にある。

「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアルは基本的に隣り合って等価に存在していたし、ガルシア=マルケスはただそれを率直に記録しただけだ、と」

この物語に対する村上春樹の姿勢もまたこれと同じである。

現実であるか幻想であるかはあまり関係がない。そこには死と生、夢と現といった明確な区別はない。だから区切られているはずの堅牢な壁が「不確か」なのである。そしてそこに「意味」や「理屈」は存在しない。そんなものがなくともページをめくる手が止まることはないのが村上春樹の魅力でもある。

彼はずっと出口を探しているのである。出口が見つからないので自ら壁を拵えて登場人物たちに出入りさせているのである。村上春樹の探究心が枯渇しない限り、我々読者は彼の作り出す作品という名の迷路に安住することが許されるのである。

文=斉藤紳士

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