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中学3年間でヒットは1本…それでも夏の甲子園メンバーに残った男。レッド吉田の人生をつないだ“辞めない力”

  • 2026.7.31
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2005年6月、映画『ピーナッツ』クランクアップ会見に出席したレッド吉田(C)SANKEI

中学3年間で打ったヒットは、わずか1本。それも公式戦だけではなく、練習試合まで含めての数字だったという。野球選手として華々しい実績があったわけではない。それでも高校では実力者が集まる野球部へ進み、最後には夏の甲子園メンバーに残った。

その人物が、お笑いコンビ・TIMのレッド吉田である。

相方のゴルゴ松本とともに、バラエティー番組などで活躍してきたレッド吉田。芸人としての姿しか知らない人にとっては意外かもしれないが、京都・東山高校の野球部に所属し、1983年夏の甲子園へ行った元高校球児だ。

しかも、その経歴は青春時代の思い出で終わっていない。芸人としての下積み、相方との出会い、5人の子どもの父親となった現在まで、レッド吉田の人生をつなぐ一本の線になっている。

1安打の選手が強豪校を選んだ

中学時代のレッド吉田が通っていたのは、特に野球が強い学校ではなかった。3年間でヒットは1本。高校でも野球を続けるかどうか迷ってしまいそうな成績である。ところが、レッド吉田が選んだのは東山高校だった。当時の京都には複数の強豪校があったが、東山も甲子園を狙える学校だった。

きっかけは、中学3年の秋に行われた近畿大会。東山が京都で1位となり、翌春の選抜大会へ出場を決めたことだった。レッド吉田は、その結果を見て「これから東山にいい選手が集まってくる」と考えたという。自分は3年間で1安打しか打っていないのに、わざわざ実力者が集まりそうな学校へ進む。冷静に考えれば、試合に出る可能性を自分から小さくしているようにも見える。

しかし、目標はレギュラーになれそうな学校を選ぶことではなかった。甲子園へ行くことだった。

ヘルメットの重さに負けても部には残った

東山高校へ入学すると、予想した通り、野球部には中学時代から名を知られた選手たちが集まっていた。有名なシニアチームで主力を務めた打者やエース、優勝経験を持つ捕手。入部直後の打撃練習で、いきなりホームランを放つ選手もいた。

一方、レッド吉田は硬式野球そのものが初めて。本人によれば、打撃練習ではヘルメットの重さに負けてしまうほどだったという。

しかも、強豪校に入れば自動的に甲子園へ行けるわけではない。チームが京都大会を勝ち抜いても、部内の競争に勝ち、ベンチ入りメンバーに選ばれなければ甲子園には行けない。それでも3年間が過ぎる間に、状況は少しずつ変わっていった。

入学時には圧倒的にうまく見えた選手が、厳しい練習に耐えられず辞めていく。部に残っても練習を怠る選手がいた。レッド吉田と同じ程度だった選手も、差を見て諦めていった。

レッド吉田は、そこでやめなかった。

今は負けていても、練習を続ければ3年間で追いつける。そう信じて部に残り、高校3年の春にベンチ入り。夏もメンバーに選ばれ、東山高校は京都大会を勝ち抜いた。中学3年間で1本しかヒットを打てなかった少年は、本当に夏の甲子園までたどり着いたのである。

甲子園で得たものは記録ではなく相方だった

レッド吉田は、甲子園でスター選手になったわけではない。本人は後に、夢がかなった喜びで気持ちが浮つき、どこかお客さん気分だったと振り返っている。ベンチの中では、甲子園はなんとも暑い場所だと思っていたほどだったという。

チームは2回戦で敗れ、高校野球は終了。大学でも野球を続けたものの、肩を壊して競技から離れた。だが、甲子園との縁はそこで切れなかった。

会社員生活を経て役者を志し、東京へ出たレッド吉田は、アパートの隣室に住んでいたゴルゴ松本と知り合う。二人で話してみると、ゴルゴもまた甲子園出場経験を持つ元高校球児だった。その偶然から交流が深まり、やがて二人はTIMを結成した。

中学時代にヒットを1本しか打てなかったレッド吉田が、もし途中で野球を諦めていたら、「甲子園球児」という共通点は生まれていない。後の相方と結ばれる理由も、ひとつ減っていたことになる。

芸人になってからもすぐには結果が出なかった

TIMを結成したからといって、すぐに売れたわけではない。初めて客前でネタを披露したときは、セリフが飛び、何も分からなくなってしまったという。その後も思うように結果が出ず、芸人として生活できるようになるまでには長い下積みが続いた。

それでも、レッド吉田はお笑いの世界にも残った。やがてゴルゴ松本の人文字ギャグ「命」が注目を集め、TIMはテレビの世界へ進出。レッド吉田もバラエティー番組で独特な5文字フレーズを繰り出し、コンビの一角として居場所を築いていった。

最初から誰よりも目立っていたわけではない。結果が出ない時期にもその場を離れず、機会が訪れるまで続けた。それは、実力差を前にしても野球部に残った高校時代と重なる。

60歳になった今も甲子園が仕事を連れてくる

還暦を迎えた現在も、レッド吉田と野球の関係は続いている。2026年には野球トーク番組でMCを務め、清原和博と共演した。清原は、レッド吉田が東山高校のメンバーとして参加した1983年夏の甲子園に、PL学園の1年生として出場していた選手である。

当時、同じ甲子園にいた二人が、40年以上を経て野球番組で向き合った。さらに、相方のゴルゴ松本とともに神宮球場の始球式にも登場。二人は今もTIMとして活動し、そろって野球のグラウンドへ戻っている。

一方で、レッド吉田は5人の子どもの父親として、息子の野球を支え、学童野球のコーチも経験してきた。近年は終活カウンセラーの資格を取得し、これからの人生をどう楽しむか、子どもたちへ何を残すかを考えながら、講演活動にも取り組んでいる。

中学3年間でヒットは1本。それでも野球部を辞めず、甲子園メンバーに残った。芸人になってからも、すぐに結果は出なかった。それでも続けた先でTIMとして居場所をつかみ、60歳になった今も、甲子園で生まれた縁が新しい仕事や出会いを運んでいる。

レッド吉田の人生を動かしたのは、一度の鮮やかなヒットではなかった。うまくいかない時間の中でも、その場所に残り続けたことだったのである。


※記事は執筆時点の情報です

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