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【「十四代」物語】蔵元と酒販店、共に頂(いただき)をめざし併走し続けてきた最良のパートナー「泉屋」佐藤広隆さん(第25回)

  • 2026.5.8

山形県の高木酒造十五代目の高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)が自ら醸した「十四代」は、1994年の鮮烈なデビュー以来、三十余年にわたって日本酒ファンから圧倒的な支持を集めている。入手できる全国53軒の特約酒販店のうちの一軒、福島県郡山市の「泉屋」は最古参の特約店であり、店主の佐藤広隆さんは「十四代」が世に出た年から高木さんの良きパートナーとして支えてきた。共に1968年生まれの酒販店主と蔵元。25歳で出会った当時の二人について、連載第5回と第6回で紹介したが、今回は2人のパートナーシップが後輩の蔵元たちにもたらしてきた影響を中心に紹介する(撮影・たかはし)。

【「十四代」物語】蔵元と酒販店、共に頂(いただき)をめざし併走し続けてきた最良のパートナー「泉屋」佐藤広隆さん(第25回)

■「高木という稀代のアーティストと出会い、共に歩むことができた。酒屋冥利に尽きます」

1994年のデビュー以来、人気銘柄としてトップを走り続けている「十四代」。今から12年前の2014年に高木酒造を訪ねた際、蔵元で杜氏の高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)に、これまでを振り返ってもらうと、思いがけない答えが返ってきた。
「酒造りの仕事は楽しいですよ、でもつらい。初年度はビギナーズラックでうまくできました。でもダーツに例えれば、全力投球したらたまたまダーツの真ん中に当たっただけ。試行錯誤を繰り返してきましたが、今も、的(まと)の真ん中にあたる酒は毎年2割に満たない。20年間、覚えているのは、苦しかったことばかりです」。稀代のヒットメーカーが語ったのは葛藤の日々だった。

果敢に挑戦を繰り返してきたが、造り始めて5~6年経った頃、重大なミスをしたという。「本丸」(当時は本醸造)が火落ち菌(繁殖すると酒の白濁や香りが変質する乳酸菌の一種)におかされたことに気が付かず、出荷してしまったこと。原因は濾過の過程にあった。濾過すると雑味を除くことができるが、高木さんが最も大切にしている旨味までも取り除かれてしまうことを嫌って、目の粗いフィルターを使って濾過したのが良くなかったと分析している。
「酒はできるだけ回収しましたが、『泉屋』店主(当時)の佐藤隆三さんは、『高木君が命懸けで酒を造っていることを、息子の広隆も私もよく知っています。そんな高木君の酒は、一滴たりとも無駄にしない』と言って、ご自分で濾過して晩酌用に飲んでくれた。そのことを知って胸がいっぱいになりました。

その頃の僕は、“シンデレラボーイ”なんてマスコミに持ち上げられ、居心地の悪さを感じながらも、どこか図に乗っていたのかもしれません。謙虚にならなければいけない、と猛反省しました。あのときがひとつの分岐点だと思います。いまの十四代があるのは、特約店をはじめとした多くの方々のおかげ。なかでも、広隆は最も近いスタンスからアイデアを出し、笑わせ、励まし、時には厳しいことも言ってくれる。僕を支えてきてくれたんです」。

右・高木さん、左・佐藤さん
右・高木さん、左・佐藤さん

佐藤さんが高木さんと知り合ったのは、94年5月。その年の晩秋に始まった酒造りから、佐藤さんは一週間高木酒造に泊まり込み、高木さんの酒造りを傍(かたわ)らで見守った。それは佐藤さんが結婚する97年まで、毎年続いた。
「初年度の93年に酒造りが終わって心労で倒れたと聞いていたので、傍らに居てやりたかった。話し相手になったり、馬鹿話をしたりすることで、少しでも気持ちをほぐしてやりたいと思ったんです」。

「十四代」は佐藤さんにとっても、初めて自分で仕入れた銘柄だけに、思い入れは格別なのだろう。それまで「泉屋」では、父の隆三さんが何年も蔵に通って開拓してきた新潟の銘柄が、売り上げを支えていた。隆三さんはかつて酒蔵で働いていたこともあり、「酒は蔵元さまから分けていただくもの」と佐藤さんは父から教わった。「でも、高木と僕は友達から始まったから、めっちゃ美味しい同級生の酒を応援する気持ちに近かった」と佐藤さん(出会いの物語は連載第5回で紹介)。

一方、高木さんにとって、有力地酒専門店の店主は業界の重鎮であり、自分よりはるかに年上だ。「名店に新人の酒を扱ってもらう」という気持ちだったのではないか。
その点、佐藤さんと高木さんは、同い年であり、出会ったのが家業に就いて2年目というキャリアもほぼ同じだ。酒販店と蔵元、異なる立場から対等に意見をぶつけあえる相手は、得難い存在となったことだろう。

もうひとつ、二人には「鈴傳(すずでん)」社長(当時)の磯野元昭さんへの共通した思いもあるのではないだろうか。
当時、磯野さんは、全国久保田会の会長を務めるなど、業界の第一人者として尊敬を集めていた。高木さんは、大学卒業後、東京の伊勢丹系列の高級スーパーで酒売り場を担当していたときに、東京・四ツ谷の地酒専門店「鈴傳」に何度も足を運んで、品揃えや客層を観察。その結果、日本酒が心底好きで「鈴傳」に買いに行くようなお客さんに愛される酒を目指すと心を決める。初めて自ら造った酒を真っ先に「鈴傳」に持参。磯野さんに絶賛されて取引が始まったのが、佐藤さんと出会う2ヶ月前の94年3月だった。
「鈴傳」で修業した佐藤さんにとって、磯野さんは“師匠”だ。磯野さんに教わり、いまも大切にしている酒屋の心得があると佐藤さんが言う。

その心得とは、「酒を仕入れるときは厳しく鑑定するが、仕入れた酒は批判せず、良いところをお客様に伝えなければならない。ただし酒の良さを伝えるだけでは不十分だ。会話を通じて好みや懐具合を察して、洋服の仕立屋のように、そのお客様にぴったり合う酒をお薦めする。最終的には、お客様に満足していただくのが酒屋の仕事だ」というものだった。
佐藤さんは、この酒屋の心得に代表される“磯野イズム”を基本に、父が抱く蔵元に対する尊敬の念と、大学の広告研究会で培ったマーケティング手法、さらに独自のセンスを加えた仕事ぶりで、高木さんの心を掴み、信頼関係を築いていった。

「泉屋」外観
「泉屋」外観

たとえば、ずば抜けたコスパと、秀逸なネーミングで「十四代」の名前を全国に広めた「本丸」(当時は本醸造)は、二人の化学反応によって生まれたと言っても過言ではないかもしれない。佐藤さんの「一年中、売れるような定番酒が欲しい」というリクエストに応えて、二年目に高木さんが造った本醸造酒。愛称で呼ばれるようにしようと二人で相談し、城の中心部や物事の核心、盤石であるべき定番や本醸造の「本」にもつながる……と、「本丸」と命名した。上質な酒は4合瓶で3,000円以上が常識だった時代に、ほんのりと吟醸香の漂うフレッシュな逸品「本丸」は、1升2,000円を切って販売され、センセーションを巻き起こす。

「本丸」が日本酒界に与えた影響の大きさは、測り知れない。現代の日本酒シーンを代表する福島の「飛露喜(ひろき)」、山口の「貴(たか)」、広島の「宝剣」、三重の「而今(じこん)」ら蔵の跡継ぎたちは、「本丸」を飲んで衝撃を受けたことが、自分が信じる旨さを目標に蔵元杜氏として酒を造るきっかけになったと語っている(連載第23回で物語を紹介)。もし高木さんと佐藤さんが出会ってなかったら、「本丸」という酒は存在しなかったかもしれない。後輩たちは自ら酒を造ることなく、「飛露喜」「貴」「宝剣」「而今」は生まれていなかったかもしれない。たとえ酒は生まれていたとしても、果たして今のような日本酒ファンの心を震わせる銘酒だっただろうか……。そんな想像をしてしまうのだ。

佐藤さんは、「本丸」に代表される定番酒への取り組みや、季節ごとに異なる酒を販売する出荷カレンダーなど、高木さんと取り組んで来た成功事例を後輩蔵元に伝えることも、自分の役割と捉えている。
たとえば「十四代」の5年後にデビューした「飛露喜」。無濾過生原酒でブレイクしたが、「味のぶれが大きい生酒だけではなく、蔵の“顔”となる安定した火入れの酒を定番として通年出荷することで、ブランドの構築ができる」と蔵元杜氏の廣木健司さんに提案。その結果、生み出された特別純米酒は、「いつ飲んでも裏切られることのない、上質で安定した銘酒」と最高峰の寿司店や日本酒ファンから絶大な支持を得ている。

また佐藤さんは、高木さんに憧れる蔵元たちを、高木酒造へ案内。高木さんの取り組みを見せることで、悩める若手たちに刺激を与え、次へのステップへと進むための機会を提供してきた。高木酒造の見学後、「宝剣」では仕込み蔵に冷蔵設備を導入し、目覚ましく品質が向上した(連載第24回で物語を紹介)。

高木酒造見学の様子
高木酒造見学の様子

2010年に会ったとき佐藤さんは、「毎年、その年に高木さんが造ったすべての酒に対して詳細なレポートを記し、高木さんに送り続けている」と話していた。繊細な高木さんの心を傷つけることのないように細心の注意を払いながらも、辛口も交えた率直なコメントを送っているという。
「十四代を飲み続けてきて感じるのは、瓶の中には高木の思いが詰まっている、ということです。それまで出会った酒は製品だったけど、十四代はその年の彼の作品のように思えるんです。製品の場合は、毎年変わらない味が求められますが、高木は『現状維持なら後退と同じ』と言う。自分が納得する最高の作品をめざして、毎年、味や香りも変えている。たとえばアルコール度数は年々下げ、香りは穏やかになってきましたが、指標はあくまでも彼のなかにある。他の酒や流行に目を向けることはありません。
彼は、自分が信じる旨さを追求し続ける孤高の天才アーティストだと思います。今年はどんな表現をしてくるんだろう、と瓶を開けるたびにドキドキする。僕は酒を通して彼の思いを受け止めて、自分なりの言葉で返していきたい。それが自分の務めだと思っています。ただひとつ心配なのは、高木には趣味もなく、一年中、蔵に籠って酒造りのことだけを考えていること。あまり思いつめないで欲しいのですが……」。

佐藤さんの懸念は、2年後に現実のものになってしまう。
12年8月末の夜、高木さんは自宅で倒れて一時心肺停止。心室細動が起こったのだ。救急搬送され、3日間意識不明に陥った。救急車が到着するまでの間、妻の若菜さんが、電話口で救急隊員の指示に従って心臓マッサージを行なったことと、優秀な医師との出会いから生還。奇跡的に後遺症はないという。
「過労が原因だと聞きましたが、高木が倒れたのは酒造りをしていない夏です。長年の負荷が身体を蝕んだのでしょう。文字通り、死ぬ思いで、酒造りに取り組んでいることを改めて感じましたが、これ以上、無理をして欲しくない。彼の酒が飲めなくなるときが来るなんて考えたくありません」。
自分の酒造りのことしか頭にない高木さんに、外の世界も知ってほしいという願いを込めて、佐藤さんは後輩蔵元の情報をさりげなく伝え続けてきたという。
「ここ2~3年、高木はほかの蔵にも出かけるようになったし、若手の酒を素直に褒めるようになってきた。23年に十五代目・辰五郎を襲名した頃から、なにかがふっきれたように思います」。

誕生パーティーの様子
誕生パーティーの様子

14年には、「まだまだ技術は未熟で、ダーツに例えると、的の中心にあたるような会心の酒は2割に満たない」と言っていた高木さん。今年26年3月、高木酒造を訪れると、「造り始めて32年、ど真ん中に当たる確率は高くなりました」と語る姿には、酒造り三十余年の堂々とした醸造家の風格が備わっていた。別れ際、高木さんに改めて佐藤さんはどんな存在か聞いてみた。
「日本酒界を共に戦い抜いてきた最強、最良の戦友です。彼は販売、僕は造り、と立場は違うけれど、頂(いただき)を取りたいという気持ちは同じ。朗らかで、ノリがよく、戦略は緻密な彼と話すのは楽しいし、言葉にしなくても分かり合えるものがある。出会えた幸せを感じています。彼に対する気持ちを一言で表すなら、LOVE、だね(笑)。運命の人だと思っていますよ」と佐藤さんへの思いをてらいもなく語った。

この言葉を後日、佐藤さんに伝えると、
「LOVE!? そんなこと言ったんですか? 嬉しいけど、ちょっと気持ち悪いなあ(笑)。高木流の軽口なので誤解しないでくださいね。彼は間違いなく親友ですが、決してウエットな関係ではありません。高木は、僕に地酒屋としての扉を開いてくれた人。父の背中を見てこの世界に飛び込んだものの、どこか父の物まねであり、“泉屋の息子”でしかなかった。彼と出会ったことで、蔵元と本音をぶつけ合い、楽しみながらも真剣に新たな販売戦略を切り拓いていく、という自分なりのスタイルが構築できたように思います」。

佐藤さんは、監督役となって福島県内の若手蔵元たちを“チーム福島”としてまとめ、定期的に試飲会を開いて、和気あいあいとしたなかにも本音で意見を言い合える場を作ってきた。酒質や試飲能力は向上し、全国新酒鑑評会で福島県が9回連続、通算12回の金賞獲得数1位を獲得した陰の功労者とも言われている。
「而今や宝剣、貴、一白水成(いっぱくすいせい)、七本鎗(しちほんやり)ら、県外の才能ある蔵元たちと密なコミュニケーションが取れるようになったのも、高木との関係があったからこそ。高木という稀代のアーティストと同じ時代に生まれ、共に歩むことができたことは、酒屋冥利に尽きます」。

25歳で出会い、蔵元と酒販店の関係に新風を吹き込んできた二人は、現在57歳。彼らの願いは、後に続く世代の蔵元と酒屋たちが、各々のキャラクターに合ったスタイルで確かな信頼関係を築き、今以上に日本酒の世界が盛り上がることだという。二人を最も強く固く結び付けているのは、日本酒への強い愛情なのかもしれない。

佐藤さんと高木さん
佐藤さんと高木さん

※次回はいよいよ、この連載のまとめとして、「十四代」高木さんの現在の姿をお伝えします。


◇店舗情報

「泉屋」
【住所】福島県郡山市開成2-16-2
【電話番号】024-922-8641
【営業時間】10:00~18:00(日曜・祝日は~17:00)
【定休日】水曜、第3・4火曜
【アクセス】JR郡山駅より車で10分


※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。

文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち、山同敦子

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