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【「十四代」物語】当代きってのスター杜氏に"進むべき道"を示したのは「十四代」だった――三重「而今」蔵元・大西唯克さん その1(第23回)

  • 2026.4.11

ピュアな甘味と爽やかな酸味が見事に調和する美酒「而今(じこん)」。2005年の銘柄デビュー時にはわずか30石から始まり、蔵元杜氏の大西唯克(ただよし)さんの才覚とたゆまぬ努力で、今や「十四代」と並ぶ入手困難な人気銘柄へとステップアップした。スター杜氏・大西さんの歩みと、「十四代」が与えた影響について、2回にわたってお送りする(写真は、東京・西日暮里の鰻と地酒の店「稲毛屋」で、2025年撮影)。

【「十四代」物語】当代きってのスター杜氏に"進むべき道"を示したのは「十四代」だった――三重「而今」蔵元・大西唯克さん その1(第23回)

■「まず、きちんとした酒造りをし、味で勝負できる場所で戦おう」

うっとりするほどのきれいな甘味、ほどよい旨味、爽やかな酸味。ピュアな甘さを軸に、味の要素が精妙に調和する甘美な酒「而今」(三重県)。この酒に蘊蓄(うんちく)は必要ない。
「お客さんのリアクションが、ほかの酒とまったく違う。飲んだ瞬間に目が輝く」とは、東京・銀座の高級和食店「銀座 鼓門(こもん)」(旧・器楽亭)店主の浅倉鼓太郎さんだ。
「製法や特徴を説明しないと良さをわかってもらいにくいお酒もありますが、而今に蘊蓄は要りません。苦味や渋味などの雑味を削ぎ落とし、甘さや旨さだけを残した問答無用の“ザ・旨い酒”。だから、素直においしいと感じるのでしょう。日本酒に馴染みのなかった人や外国人、辛口の酒を飲みつけているご年配のお客さんにも、とても評判がいいんです」。
甘味と旨味は、人間が生まれた時から本能的に好む味だと言われている。そこに爽やかな酸味が加わった「而今」の洗練された味わいは、人を幸福感に誘うのだろう。

「而今」の人気は、地酒専門の酒販店でも見て取れる。
“地酒の殿堂”として知られる東京・多摩市の酒販店「小山商店」(連載第7回で物語を紹介)は、日本酒の扱い銘柄は約1000。広々とした店内に圧倒的なボリュームで地酒が並び、店内を歩きながら人気銘柄を実際に手に取って選べるのが、地酒ファンにはたまらない喜びなのだが、「十四代」と「而今」だけは店頭には並んでいない。欲しい人に公平に買ってもらうために、やむなく抽選販売にしているのだが、それだけ「十四代」と「而今」を求める人の数が圧倒的に多いということ。
「而今」に魅了されるファンは数知れないが、扱う酒販店は全国にわずか43軒しかない。ようやく入手できた飲食店では「而今あります」と張り出す。現代の日本酒ファンにとって、垂涎の美酒なのだ。

ホウロウ製仕込みタンクに櫂を入れる大西さん
ホウロウ製仕込みタンクに櫂を入れる大西さん

「而今」が世に出たのは、2005年の春。筆者はデビュー2年目の純米吟醸を飲んで、甘さを軸に、緻密な酒質設計で造られていることに感嘆。経験が浅いうちから、これほど高い完成度の酒を造ることができる蔵元杜氏の大西唯克さんは、ひらめき型の天才だと想像した。本人には翌07年、東京の飲食店で初めて会ったのだが、少年っぽさを残す顔立ちで、実年齢の32歳よりもかなり若く見えた。筆者と出身大学が同じということもあってすぐに打ち解け、あれこれ質問してみると、構えることなく、飾ることなく、答えが返ってくる。「而今」の印象と同様に、フレンドリーで、爽やかな好青年だと思った。ただ、どうやってあの美酒を造ったのか、造りたいイメージがあったのかと尋ねても「基本に忠実に造っただけなんです……」と言うばかり。やはり天才肌だと結論付けてしまう。その後、酒蔵への訪問を重ね、全国で開かれる試飲会や各地の飲食店で、何度も会って会話を重ねるうちに、ひらめき型の天才だという見立ては間違っていることに気がつく。

大西さんは労をいとわない努力家であり、仕事に対して一切の妥協を許さない。自分の考えを曲げない頑固な面もある。親しみやすい人柄だと感じたが、人づきあいに関しては、不器用なほうだと大西さんは自己分析している。そういえば、筆者が初めて蔵を訪れた10年頃から数年の間は、スタッフへの指示の出し方はどこかぎこちなかった。酒造りに関しては、挫折の連続だったと言う。笑顔の爽やかなスター杜氏は、人知れずもがき、苦しみ、悔し涙を流しながら戦い続けて来たのだ。

三重県名張市の木屋正酒造
三重県名張市の木屋正酒造
初瀬街道
初瀬街道

「而今」醸造元の木屋正(きやしょう)酒造は、周囲を山に囲まれ、赤目四十八滝などの景勝地も近い自然に恵まれた小都市・三重県名張市にある。創業は1818(文政元)年。奈良と伊勢神宮を繋ぐお伊勢参りの道「初瀬(はせ)街道」沿いに蔵を構え、代々「高砂」銘柄で、主に安価な普通酒を地元向けに造ってきた。

大西唯克さんは、1975年8月に横浜で生まれ、小学校2年生のときに、両親と2歳下の弟、5歳下の妹の家族5人で名張市に引っ越ししてきた。それまで会社勤めをしていた父・武夫さんは、母・洋子さんの実家の家業である木屋正酒造の五代目を継ぎ、苗字も大西に変わった。ちなみに武夫さんの実家は愛媛県の酒蔵で、洋子さんの父(唯克さんの祖父)の実家も奈良県の酒蔵だ(2蔵とも現在は廃業)。二代続けて、よその酒蔵から婿を跡継ぎに迎えたということになる。家の格を重んじた時代に、遠隔地であっても酒蔵の子女同士の婚姻は、珍しいものではなかった。
「名張に越して来たころから漠然と、自分が家業を継ぐことになると思っていました。近所の方々から“木屋正の息子さん”とか“酒屋の若”と呼ばれて育ちましたし、母が酒蔵の娘としての強い誇りを持っていることは、子ども心にも感じていました」と大西さん。
地域の人々にとっての大西家は、代々続く旧家として、特別な存在なのだろう。

掛け軸
掛け軸

大西さんは数学と理科が得意で、図画工作が大好き、国語と社会は大の苦手という典型的な理系男子だった。大学生活は東京で送りたいと考え、上智大学理工学部機械工学科に入学。就職のときは、いずれ酒造業を継ぐことを意識して、ビール会社と食品会社の試験を受け、雪印乳業(現在の雪印メグミルク)に入社した。生産部に配属され、工場で牛乳やプリンなどのラインの監視や機械のメンテナンスを担当。飲食物を製造する際の意識について、多くを学んだという。
「注意されたのは、観察するということです。ぼんやりと立っていてはいけない。音や匂い、動きなど、常に五感を働かせて、いち早く異変を感じろと言われました。温度管理についても厳しくて、設定した温度にぴったりと合わせるのはもちろんですが、なぜその温度にするのか、理由を考えろと言われました」。
欠点を見つけて、言葉で表す“官能表現”という訓練も受けた。試飲する牛乳の中に、異味異臭がするものが紛れ込ませてあり、多数のなかから劣化したものを探し出し、良くない点を言葉で表現する能力を養うというもの。自分が造った製品をセルフチェックするという意識は、自然に身についていったに違いない。

3年勤めて雪印を退社したのち、酒蔵の子息を受け入れる研修機関として知られる広島の独立行政法人・酒類総合研究所(旧・国税庁醸造試験所)で半年間、酒造りの基本を学び、2002年6月、26歳で実家に戻る。だが、家業に就いてみて、想像していた以上の厳しい現実に愕然とする。四代目の祖父の時代には700石(一升瓶で7万本)ほどあった売り上げが年々減少し、200石を割っていたのだ。
「高砂が旨いという噂を聞いたことがありませんでしたし、経営がうまくいってないのは、子供のころから察していました。でもこれほど経営状況が良くないとは、思ってなかったんです」。

レンガ造りの煙突を背に少年のような笑顔を見せる大西さん
レンガ造りの煙突を背に少年のような笑顔を見せる大西さん
かつて仕込みタンクに下げていた札
かつて仕込みタンクに下げていた札

その頃の「高砂」は、近隣の居酒屋や旅館で、「熱燗一本!」と頼めば出てくるような酒で、銘柄で選ばれていたわけではなかった。酒販店へ営業に行っても、「高砂」は相手にされなかった。日本酒以外のアルコール飲料を選ぶ人が増え、日本酒全体のマーケットが縮小する中で、売り上げの減少を食い止める打開策を考えなければならない。
五代目蔵元の父は、名張出身の作家、江戸川乱歩ゆかりの観光蔵として売り出そうと考えた。作品名にちなんだ「幻影城」という新しい銘柄をつくり、蔵の中に試飲できるスペースを設けて、観光バスを誘致して、お土産として酒を買ってもらおうとした。大西さんは丁寧に説明をしたつもりだったが、日本酒に興味のない観光客の反応は鈍く、期待したほどの売り上げは立たなかった。選択と集中によって、経営の効率化を図ろうと考えた大西さん。それまで一升瓶と5合瓶、4合瓶、パック酒、ワンカップと、中身は同じ普通酒をサイズ違いで展開していたのだが、一升瓶から手詰めで移し替える手間が非効率と考え、3アイテムに集約。それでも売り上げにはつながらなかった。無借金の堅実な経営だったが、このままでは先がない……と、焦るばかりだった。

万策尽きたと思われたころ、大阪の近鉄百貨店を会場とする催事に出展しないかと声をかけられ、1週間、毎日売り場に立ち続けた。そのとき、客として来ていた日本酒マニアの男性に、「お前、六代目を継ぐつもりなら、もっと勉強しろ」と、そのとき出展していたほかの若手蔵元と共に、大阪の居酒屋に連れて行かれた。店には「黒龍」「醸し人九平次」「飛露喜」などの人気銘柄が並んでいたが、大西さんは、どの酒も飲んだ事はなかった。「こんな酒を造れ」と言われて飲んだのが、山形の酒「十四代」本丸(当時は本醸造酒)。自分より7歳上の若い蔵元が、杜氏を兼任して、自ら造った酒として、東京や大阪で話題を集めている噂は聞いていたものの、飲んだのは初めてだった。
「うわああああ! なんて旨いんだろう。甘くて旨くて、果実みたいにフルーティーで、しかもキレもよく、きれいな味で、フレッシュだ! こんな日本酒が、居酒屋で飲めるなんて!と熱狂し、興奮してしまいました」。

酒類総合研究所で学んでいたときには、宇都宮仁さん(元・東京国税局鑑定官室室長、現・日本酒造組合中央会理事)が指導する「分析評価研究室」に所属し、新酒鑑評会に出品された大吟醸酒を数多く試飲してきた。大阪でこのときに飲んだ「十四代」は、安価な本醸造であるのにかかわらず、出品酒のような芳香が漂い、しかも香りと味わいが一体になっていることにも感銘を受けた。宇都宮さんから「香りは大事な要素だが、香りだけが浮いている酒は好ましくない。香りと味は一体になっていることが大切だ」と教わってきていたのだ。

だが、飲み手としての高揚感は瞬時に消え、蔵の跡継ぎとしての現実に引き戻され、暗澹(あんたん)とした思いでいっぱいになった。これまで「高砂」の酒質が良くないことは感じていたが、評判の酒・十四代とこれほどの差があったのか。生き生きとした味わいの十四代と比べると、高砂は明らかに品質が劣っているだけでなく、老(ひ)ねていた。酸化して、鮮度が失われていたのだ。やがてショックは闘志に変わっていく。
「これまで酒を売るために何をするべきか、もがき苦しんできましたが、その考え自体が間違っていたことに気が付いたんです。まずい酒をお客様がお金を出して買ってくれるはずがない。まず、きちんとした酒造りをしよう。質のいい酒を造れば絶対に分かってくれる人がいる。自分が納得できる酒を造って、味で勝負できる場所で戦おう」と、地酒の激戦区である東京の銘酒居酒屋のリストに載ることを目標を定めた。
さらにそれまで杜氏任せだった酒造りだったが、家業に就いた02年の秋から自分も関わることを決めたのだ。

2018年3月時の「而今」の主なラインアップ
2018年3月時の「而今」の主なラインアップ

但馬(兵庫県)から40年にわたって、酒造期に泊まり込みで杜氏を務めて来た榎(えのき)茂さんの下で働き始めた。いざ、蔵の中に入って働き始めると酒蔵の汚さが気になった。江戸後期に創業し、改築しながら使ってきた木造蔵で、建物が古びているのは仕方がないが、清掃がいきわたらず、気になる匂いもある。雪印で働いていたときには常識だった衛生管理に関して、まったく意識されていなかったのだ。そこで、衛生管理を徹底することと、できた酒を酸化させないようにすることを、改善策として杜氏に提案するが、榎さんは聞く耳をもたなかった。
杜氏にしてみれば、長年の経験で培ってきたやり方に誇りがある。若造に否定されていい気持ちがするはずがない。なにより気に障ったのは、理屈を述べたてる大西さんの態度だったのではないか。杜氏が生きてきたのは、理屈が介在しない世界だ。先輩のやり方を真似しながら、単純作業を繰り返すことで技を身体に覚え込ませる。その間に「なぜ」という言葉は禁句だ。そうやって長年かけて造りのトップである杜氏まで上り詰めたのだ。
大西さんも、榎さんのやり方をすべて否定したわけではない。麹を育てる時の箱の使い方や布のかぶせ方、箱に木片をかませて通風する方法など、杜氏から学んで、現在も踏襲している手法もある。経験と勘で培った技を大切にしたいし、なにより木屋正酒造で40年間も酒を造ってくれた杜氏を、大恩人として敬意を払う気持ちは強く持っている。
「それでも、気温も水温も測らず、米を水に浸ける時間は『〇分ぐらい』と大雑把だったり、もろみの温度を下げるタイミングで、『今年は暖冬だからこれ以上、下がらない』と諦めたり、『いつもこの方法だった』と改善しようとしない仕事は、僕にとっては手抜き仕事にほかならなかったんです」。
大西さんが造りの現場に入って3年目には、榎杜氏は65歳と高齢だったこともあり、契約更新は行なわなかった。こうして大西さんは、2004年の秋に自ら杜氏の職に就き、酒造りを始めたのだ。

酒蔵入口の暖簾前に立つ大西さん
酒蔵入口の暖簾前に立つ大西さん

※次回も引き続き、「而今」の物語をお送りします。

木屋正酒造
【住所】三重県名張市本町314‐1
【電話】0595‐63‐0061

※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。

文・撮影:山同敦子

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