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浅井長政でも松永久秀でもない、NHK大河ではわからない部下に何度も裏切られた信長が本当に許せなかった相手

  • 2026.5.3

織田信長が浅井・朝倉両家を滅ぼした経緯が描かれる「豊臣兄弟!」(NHK)。系図研究者の菊地浩之さんは「信長は意外に甘チャンで、部下にたびたび裏切られている。ただし一度でも裏切ったら、二度と許さないという苛烈な性格ではなかったようだ」という――。

ドラマでも浅井と朝倉はセット

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、浅井長政あざいながまさ(中島歩)は織田信長(小栗旬)と同盟を結んだが、父・浅井久政(榎木孝明)は朝倉家との古くからの関係を重んじ、長政は嫡男・万福丸を朝倉家の人質に出さざるをえなくなった。そして、朝倉家からは朝倉義景(鶴見辰吾)の従兄弟・朝倉景鏡(池内万作)がしばしば浅井家を訪れ、朝倉家になびくように働きかけていた。

浅井長政像(一部)、高野山持明院所蔵、17世紀
浅井長政像(一部)、高野山持明院所蔵、17世紀(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

元亀元(1570)年4月、信長は朝倉家を討つため、越前に進軍。朝倉の支城を陥落させ、わずか2日で敦賀郡を制したが、長政が離反。信長は浅井軍に近江路を塞がれたり、背後から追撃されることを恐れ、殿軍しんがりに木下秀吉(のち羽柴、豊臣)を置き(一説に池田勝正、明智光秀も同行)、急ぎ撤退した。有名な「金ケ崎かながざきの退のき口」である。

朝倉義景像(模写、一部)、湖北町所蔵(原資料:心月寺所蔵)
朝倉義景像(模写、一部)、湖北町所蔵(原資料:心月寺所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
本当に同盟を結んでいたのか

さて、ここで問題である。浅井・朝倉家は本当に同盟を結んでいたのだろうか。「豊臣兄弟!」でもそう描かれたように、これまで浅井家は長政の祖父・亮政以来、朝倉家との旧縁を重視したとの説が支配的であったが、実際にはそのような関係にない。永禄3(1560)年、浅井長政(当時は賢政)が家督を継いだ年に、浅井・朝倉家の関係がそれほど親密ではなかったとの証言があるのだ。

永禄3年、南近江の六角義治(義弼)とその家臣たちが、父・六角義賢(号・承禎)に叱責されている。六角家は越前の朝倉家と仲が悪いが、関係修復のため、朝倉家から婚姻を結ばないか(義景の娘を六角義治に嫁がせる)と打診されていた。義賢は縁組みに奔走していたが、子の義治が斎藤道三の孫娘との縁談を父に相談もせずに勧めてしまう。

六角家は美濃の土岐家と代々仲が良く、義賢の母は土岐家の出身だ。こともあろうに、その土岐家を追放した道三の孫娘と婚姻を結ぼうとするとは何ごとか。しかも、「斎藤氏は(朝倉氏にとって)古敵であるのだから、六角氏と斎藤氏の縁談が決まったことをきっと無念に思っているに違いない。」朝倉氏との「今回の縁談がうまくいかなければ、どう考えても遺恨を持つに相違ない。そうなれば今後必ず朝倉氏は浅井氏と関係を深めると考えるが、その時(義治を支える宿老の)お前たちはどうするのか」(『六角定頼』。引用に際し、文章の順番を一部変えている)。

浅井・朝倉の絆は深くなかった

なぜ、ここで浅井家が出てくるかといえば、浅井家は六角家の支配下にあり、浅井長政(当時は賢政)は六角家重臣・平井定政の娘を娶っていたが、永禄2(1560)年に離縁して六角家支配から脱却しつつあったのだ。

一説には、浅井家が「六角氏従属下からの離脱を決断したのは、浅井氏家中の支えがあってのことであろうが、六角氏と対立するにはそれなりの戦力や、いざというときの後ろ楯だても必要だったはずである。浅井氏が『後詰』を求めて朝倉氏と国衆・戦国大名間の従属関係を結んだのは、まさにこのときだったのではないだろうか」(長谷川裕子「浅井長政と朝倉義景」『歴史の中の人物像』所収)という見方もあるが、少なくとも永禄3年にはまだ「朝倉氏は浅井氏と関係を深め」ていなかったのだ。

なぜ長政は信長を裏切ったのか

では、なぜ長政は信長を裏切ったのか。

浅井家の来歴を顧みると、主家の京極家の家督相続争いに端を発し、美濃斎藤家・六角家の間を「昨日の友は今日の敵、そして明日にはまた同盟」という離合集散で生き抜いてきた。信長との同盟・離反も同じ感覚で行ったのではないか。(ただ、信長はそれを許さなかった)。

狩野宗秀画「織田信長像」(一部)、長興寺所蔵、1583年
狩野宗秀画「織田信長像」(一部)、長興寺所蔵、1583年(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ここでは、浅井家の歴史を紐解いていこう。

浅井は守護・京極家の執権になる

室町時代、近江(滋賀県)は南近江を六角家、北近江を京極家が守護として治めていた。

京極家では応仁・文明の乱の後に京極政経と京極高清の間で家督相続争いが勃発した。京極政経の子・京極材宗が、近江半国守護・六角高頼の娘と婚姻を結び、京極高清が美濃守護代・斎藤利国(斎藤道三とは血縁関係はない)の娘と婚姻を結んだため、六角家・美濃斎藤家をも巻き込んだ合戦が展開された。

結局、京極高清が家督を継いだが、高清の家督を巡って、実子の京極高広と養子の京極高吉が家督相続争いを起こした。

京極家の被官(家臣)は高広派と高吉派に分かれ、高広を擁した浅見貞則がクーデターを起こし、高清・高吉父子は姻戚の織田寛広(岩倉織田家)の居城がある尾張に逃亡。高広・浅見が実権を握った。浅見が専横を振るいはじめると、国衆が反撥。ここで長政の祖父・浅井亮政すけまさが登場する。

亮政は国衆を束ねて美濃斎藤家と連携し、高清・高吉父子を尾張から呼び戻して浅見貞則を追放。京極家の執権となった。その後、亮政は六角家を牽制するため、南近江に出兵するが、六角定頼の反撃を受け、逆に北近江に攻め込まれる。亮政はたびたび敗退して越前などに逃亡を余儀なくされるが、着実に力を付けていった。

浅井は六角家の支配から脱却

京極高清が死去すると、子の京極高広が家督を継ぐ。養子・京極高吉が六角定頼と結んで挙兵。一方、浅井家では亮政の婿養子・浅井明政あきまさが高広派、庶子・浅井久政ひさまさが高吉派(+六角家)となった。亮政の死後、浅井明政と浅井久政が家督を争ったが、六角家の支持を得た京極高吉・浅井久政が勝利した。京極高吉は六角家の支援を得ながら京極家の再興に努めた。

かくして浅井家は久政時代に六角家の支配下にあった。そして、前述の通り、永禄2(1559)年1月、久政の嫡男・浅井賢政かたまさ(のち長政)が六角義賢から偏諱へんきを受け、15歳で元服。六角家重臣・平井定武の娘と婚姻を結ぶが、同永禄2年4月に妻を離別。六角家と袂たもとを分かつ。

長政は信長の義弟となったが…

永禄3年、久政は35歳の若さで、賢政に家督を譲り隠居した。浅井家が六角家支配から脱却するには、久政が当主では都合が悪いと考えたのではないか。翌永禄4年5月頃、賢政は織田信長から偏諱を受け、長政と改名したという。信長の妹・お市の方と婚約した(婚姻した年は、永禄2年から11年まで諸説あり)。織田家との同盟に踏み切った。

浅井長政夫人・お市の像、高野山持明院所蔵、16世紀
浅井長政夫人・お市の像、高野山持明院所蔵、16世紀(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

ところが、元亀元(1570)年4月、朝倉家攻めで浅井長政は信長から離反して恨みを買い、以降、織田軍は徹底して浅井家を攻め立て、天正元(1573)年8、9月に小谷城を陥落、浅井長政を自刃に追い込んだ。長政の離反からわずか3年のことだった。

【図表1】浅井家・朝倉家・京極家の関係
なぜ信長は許さなかったのか

信長は意外に甘チャンで、部下にたびたび裏切られている。松永久秀や荒木村重なんかが有名である。そして、信長は松永や荒木に翻意するように説得している。一度でも裏切ったら、二度と許さない――意外にもそんな苛烈な性格ではなかったのである。

ところが、浅井長政の場合は一転して敵視している。なぜか。個人の相性や好き嫌いにも関係するので、信長にとって長政は単にいけ好かないヤツだったのかも知れない。ただ、他にもいくつか理由は考えられる。

まず、地政学的に許せない。信長は岐阜城を拠点にして、京都の足利義昭を擁していた。途中はどうやっても浅井家支配領域を通らねばならない。そんなところに裏切り者を置いておくわけにはいかないのだ。

朝倉・織田には因縁があったか

次に、くっついた相手が悪かった。信長にとって、長政がいけ好かないヤツだったのかどうかはわからない。でも、朝倉家は大嫌いだった。だから、よりにもよって朝倉家にくっついたのが許せなかったのではないか。

小谷城内、浅井長政の自刃の地
小谷城内、浅井長政の自刃の地(写真=Heartoftheworld/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

織田家の先祖は、越前の織田剣おたつるぎ神社の神官だったという。越前・尾張の守護である斯波しば家に仕え、尾張守護代に抜擢された。今でも北陸には「木瓜紋もっこうもん」を家紋とする家が多いが、それは朝倉家が「三つ盛木瓜」を家紋としていたから、朝倉家から下賜かしされた家が多いからという説がある。織田家も「五葉木瓜」を家紋としており、朝倉家から下賜された可能性は否定できない。つまり、かつては朝倉家の方が織田家よりも格上だった。

だから、信長が朝倉家に上洛を促しても、朝倉家は「フンッ」と言わんばかりに相手にしないし、信長は信長でアタマに来て、さっそく朝倉攻めに向かったのではないだろうか。

【図表2】朝倉家と織田家の家紋

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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