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喀血した織田作之助の口から痰を吸いこんだ…20代前半の恋を生涯引きずった"内縁の妻"の波乱万丈人生

  • 2026.6.14

小説『夫婦善哉』で知られる無頼派の作家オダサクこと織田作之助。しかし、彼が33歳で早世したとき“内縁の妻”が看取ったことはあまり知られていない。のちにバーのマダムとして有名になるが、心にはずっと作之助への思いを抱えて生きた織田昭子(ペンネーム)の生涯を文筆家の平山亜佐子さんが追った――。

織田作之助、1945年頃
織田作之助、1945年頃、『昭和史 第13巻』(毎日新聞社)より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
女優となり舞台で作之助と出会う
第3回:織田昭子[1922(大正11)年~2004(平成16)年]

太宰治、坂口安吾と並んで「戦後無頼派作家」とよばれた織田作之助。その内縁の妻で、織田昭子という女性がいた。ふたりの生活は足掛け4年、実質1年4カ月ながら、ヒロポンと酒と女と執筆に溺れる作之助を支え続け、最期を看取った。その後はバーのマダムとして生き、ベストセラーを世に送り出しながら、作之助の名を後世に残すことへ人生を注いだ。誰かを愛した時間そのものを、自らの生の軸に変えて生き抜いた、稀有な女性である。

昭子の本名は輪島昭子。1922(大正11)年12月9日、東京・木挽町四丁目(現・東銀座)に生まれた。小学校卒業後、東京市立第一高等女学校に進学。4年生のとき新協劇団に入団したが、戦時中に幹部俳優らが検挙されて公演が中止となり、日活多摩川撮影所のニューフェイスとして採用された。芸名は築地燦子つきじあきことなった。その後、映画や舞台に出演しながら、父の死後は写真モデルや帽子屋のマネキンなど家計を助ける仕事もこなした。

1943(昭和18)年、織田作之助原作の舞台「わが町」で四人姉妹の末妹の役をもらった。ここで昭子は原作者の織田作之助と運命的に出会う。

作之助からの強引なアプローチ

作之助は1913(大正2)年、大阪天王寺区の仕出し屋の長男として生まれた。猛勉強の末に第三高等学校(現・京都大学)に入学したものの出席日数不足で退学し、大阪に戻って同人雑誌を創刊、のちに「夕刊大阪」への時代小説連載や『夫婦善哉』の発表で作家として立った。女給だった宮田一枝と結婚していたが、1944(昭和19)年8月6日、一枝はわずか32歳で子宮がんで亡くなる。昭子と出会ったのはその数カ月前だった。

自作「わが町」の稽古場に現れた作之助は、楽屋着の派手な浴衣を着て客席に座っている昭子の視線とぶつかった。後に小説『夜の構図』のなかで「主役の女優よりも溌溂とした魅力があり、何よりも睫毛が長い」と書いている。作之助は公演が始まっても帰阪せず、舞台裏、楽屋、廊下とさまざまな場所に現れた。

あるとき、緞帳どんちょうが開く前の舞台の上で「今夜とれたら、トニイ(喫茶店)へ来へんか」と昭子を誘い、「来へんかったらここからのけへんぜ」と退かない。昭子は慌てて「行きます、行きますよって、のいてください」と言うしかなかった。文学少女ではなかったので作之助のファンでもなく、その強引さに腹が立った。

前の妻は病死、大阪での同棲生活

秋、一枝が亡くなってすぐに作之助はふたたび上京し、昭子に大阪に来るよう言った。昭子は迷ったが、12月6日、汽車で京都へ向かった。途中で作之助の友人の映画監督・川島雄三が合流した。このときの気持ちを昭子は「逃避行という気分のたかぶりも、駆け落ちめいた色気もなく、――ささいな内緒事――だと思いたくて、二人で並んで坐っているのが他人になんとなくはばかられるという、照れ臭さが、先だった」(『わたしの織田作之助』)と書いている。

京都で雨に濡れた作之助は風邪をひき、そのうち昭子にもうつって撮影所に行けなくなった。地震もあり、なし崩し的に大阪の旅館に泊まり、そのまま北野田の作之助の家に入った。

ここは亡妻一枝と作之助が暮らした家で、まだ納骨もしておらず、一枝の写真も飾られたままだった。作之助は遺影の前で手を合わせ、空襲警報が鳴れば防空壕にも遺骨を持って入った。その様子に昭子はショックを受けた。別の女の来訪もあり、勝手知ったるという感じで部屋のなかを歩き回る。昭子はますます心がいじけた。

3月13日の大阪大空襲で焼け出された長姉のタツ夫婦が同居することになり、作之助と昭子は2階に居候のようになった。タツに昭子のことを聞かれた作之助は「あれとは結婚するつもりはないねん」と弁解した。この言葉が後に大きな問題に発展することを、このときは誰も知らなかった。

8月15日に終戦を迎えると、出版ブームが起きて作之助は忙しくなった。大量の仕事をさばくためにヒロポンに手を出した。1日100本のフィリップモリスとコーヒーとヒロポン、そして女性。これらの刺激があってはじめて筆が進んだ。

織田昭子、1972(昭和47)年3月6日、銀座のクラブ「アリババ」にて
織田昭子、1972(昭和47)年3月6日、銀座のクラブ「アリババ」にて
別れ、そして復縁

すれ違いの生活になり、11月に別れ話が出た。作之助は「君も不幸だがぼくも幸福ではない」という。12月にふたりははっきりと別れた。あとで作之助は友人に「別れる、いうたら、アッサリハイいいよって……」と腹立たしげに語ったが、昭子はただ無抵抗なだけだった。

実はそのとき、作之助の姉たちは再婚話を進めていた。翌1946(昭和21)年2月、作之助はソプラノ歌手の笹田和子と結婚式を挙げた。しかし、入り婿した笹田家とは常識も生活リズムも合わず、10日目に作之助は散歩に出かけるふりをして逃げ出した。入籍はしないまま終わった。

4月、昭子が京都に戻ってまもなく、作之助が突然やってきた。別れてから50日が経っていた。結局ふたりはまた姉夫婦の富田林の家に居候になり、作之助はタバコとコーヒーとヒロポンとすさまじい量の仕事をこなす日々に戻った。

昭子の仕事は近所の4軒の薬局でヒロポンを買い集めることと、編集者の応対と、夜中に執筆中の作之助の横にいることだった。薬が切れかかるとぼんやりする作之助に、昭子は「そこはこういう方がええ」と執筆のアドバイスをした。寝てしまわないように昭子もヒロポンを打った。ふたりにとって大事なことは小説だけで、それ以外のことはどうでもよかった。

作之助の女グセは治らず

あるとき、作之助の浮気相手のキャバレーのダンサーが現れてつかみ合いの大げんかになった。さらにそこに妊娠中絶の同意書にサインを求める笹田和子が現れた。こんなふうに作之助の女性関係は数珠繋ぎに続いたが、あまりの忙しさに別れ方が杜撰になっていったので、トラブルになると昭子が原稿料から手切れ金を渡した。

8月30日から読売新聞にて『土曜夫人』の連載が始まり、張り切る作之助はヒロポンの量を2倍に増やした。舞台を東京にしてほしいという申し入れがあり、11月10日に作之助は上京した。そして、座談会や放送局、新聞社、出版社などに昭子を連れまわし、人に紹介した。

織田作之助、酒場「ルパン」で
織田作之助、酒場「ルパン」で、1946(昭和21)年、林忠彦『カストリの時代』ピエ・ブックスより(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
東京に越して1カ月で大喀血

12月4日夜、友人たちと銀座から旅館に帰ってきた作之助はお茶を飲み、ケーキを食べて歌を歌っていたが、突然大喀血をした。学生時代から胸を病んでいたが、無茶な生活が祟ったのだった。再び喀血が始まった瞬間、作之助が痰で窒息してしまうと感じた昭子はとっさに口で吸いこんだ。作之助はそのまま東京病院の病床についた。

病院での作之助は、無理難題を言いつけて昭子を翻弄した。オールウェーブラジオ、アイスクリーム、ケーキ、刺身、だし巻き卵など、昭子は言われるがままに探し出した。終戦後1年目のことで、手に入れるのは容易ではなかった。文壇で交流があった菊池寛や林芙美子がお見舞いに来たが、姉たちは誰も来なかった。

1947(昭和22)年1月10日、作家・織田作之助は東京にて33歳の若さで亡くなった。最期の言葉は「思いが、残る……」だったという。

作之助は33歳で死去、昭子は…

知らせを受けた長姉のタツと次姉の千代は、すぐに大阪から病院に駆け付け、翌日夜の通夜と火葬の手配をした。昭子はただ呆然としていた。周囲がヒソヒソと昭子の話をし、姉が「女房なんかでは、オマヘン」と語っているのが聞こえた。

精進落としの席で、次姉の千代が作之助の旧友・青山光二に言った。昭子は「嫁でもなんでもおまへん。赤の他人の、ただのオンナだす」。印税を含めて一銭も渡したくないということだろうと青山は推測した。

その席には太宰治や林芙美子の顔も見えた。青山が姉たちに促されて立ち上がり姉妹の功労をまくし立てたところで、太宰が止めた。太宰は昭子の方を振り向きながら「この人のことは、ぼくたちが引きうけようじゃないか」と言った。林芙美子は席が終わった後、「あんたたち、何てこと云うのよッ」と怒り出し、「あの子は、わたしの所へころがりこんでくるね」「女の気持ちがわからないのよ。寄るべない女の気持ちが……」と確信にみちた言葉を投げた。

林芙美子
林芙美子、1949年4月、『新潮日本文学アルバム 34』(新潮社)より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
銀座のバーのマダムとして有名に

大阪で改めて葬式をした後、昭子はしばらくタツの家にいたが、百カ日の法要が済んだところで法律事務所に連れていかれた。すでに用意されていた書類には、作之助が昭子のために買った京都の家以外の一切の権利を放棄するとあった。昭子は黙ってサインした。

結局、林芙美子の予言どおり、彼女のもとに駆け込み、そこで1年半を過ごした昭子は、やがて大阪・道頓堀でマダム業を始め、1950年代には新宿でバー「ととや」、のちに銀座にバー「アリババ」を開いた。1956年には著書『マダム』(三笠書房)を出版。すると、16万部を突破するベストセラーとなり、映画化もされた。

作之助の友人と結婚するが…

作之助の友人だった作家の石濱恒夫と結婚し、一女をもうけたが、作之助への思いは尽きなかった。ある日、石濱は机の上に、林芙美子宛の手紙の書きかけを見つけた。そこには昭子の字で「これでやっと、とうとう織田は私ひとりのものになりました」とあった。笹田和子の婚約記事を読んでのことだった。石濱はいつまでも織田にこだわる昭子にやりきれない思いがした。

結局、昭子と石濱は離婚。昭子は『婦人文芸』に作之助との思い出を連載し、1969年には新宿伊勢丹にて「織田作之助、坂口安吾、田中英光三人展」を開催。1970年には悲願の『織田作之助全集』(全8巻、講談社)の配本を実現させ、同年に2冊目の著書『わたしの織田作之助』(サンケイ新聞社)を刊行した。

昭子にとって作之助との約束は二つあった。ひとつは作之助を歴史に埋もれさせないこと。もうひとつは、自身も作家活動をすること。筆を執ることを教えてくれた作之助に報いたかったのだろう。

82年の人生は幸せだったか

1991(平成3)年にバーを閉め、1998年にアルツハイマー病を発症。2004年12月13日、娘に看取られながら82歳で死去した。

たった4年、実質1年4カ月の作之助との内縁関係で人生が変わってしまった昭子。心のなかに常に愛するひとがいる人生は、豊かなものだったのかもしれない。昭子が倒れてから、娘の春上(女優の京春上)が昭子の便せんを使っていたところ、最後の一枚に昭子の筆跡で西行の句の現代語訳がしたためてあったという。

「世の中にわがものとてはなかりけり 身さえ土にかえすものなり」

【図表1】織田昭子の略歴
プレジデントオンライン編集部作成

・参考文献
織田昭子『マダム』三笠書房、1956年
織田昭子『わたしの織田作之助 その愛と死』サンケイ新聞社、1970年
亀井勝一郎、野田宇太郎、臼井吉見 編『日本文学アルバム第20』筑摩書房、1956年
「特集 追悼織田昭子さん」『婦人文芸』(81)婦人文芸の会、2005年10月
織田作之助「夜の構図」『定本織田作之助全集 第六巻』文泉堂書店、1976年
石濱恒夫「ある離婚の手記」『新潮』54(6)、新潮社、1957年6月号
「小説“マダム”後日物語 織田作之助をめぐる未亡人論争」『娯楽よみうり』3(23)、読売新聞社、1957年6月7日号
織田昭子「4年間生活をともにし、死に水をとった私の立場は…」『新鮮』祥伝社、1978年10月
織田昭子「「辛いわ」マダムの追憶」『特集人物往来』2(6)人物往来社、1957年6月
青山光二「ややこしくも懐かしき―太宰治、理由あって林芙美子を訪ねる事」『小説新潮』43(1)(535)新潮社、1989年1月
青山光二「「虚」のはなやぎ」『小説新潮』26(12)(342)新潮社、1972年12月
徳川夢声「織田昭子」『問答有用:徳川夢声対談集第9』朝日新聞社、1957年
織田昭子「織田作之助とモデルの姉」『特集人物往来』2(2)人物往来社、1957年2月
関根和行『資料織田作之助』オリジン出版センター、1979年
大谷晃一『生き愛し書いた 織田作之助伝』講談社、1973年
青山光二「小説 織田作之助の青春の賭け」『令女界』28(4)、宝文館、1950年4月
「ざつだんざつだん」『週刊現代』1(33)、講談社、1959年11月22日号
野田宇太郎「夜の構図の中に 織田作之助未亡人輪島昭子さん」『六人の作家未亡人』新潮社、1956年
大谷晃一『表彰の果て』編集工房ノア、1985年
山本容朗「酔客往来 新宿交遊学⑧ 織田作之助、田中英光、獅子文六」『潮』(247)
「亡夫に餞けした根性の三未亡人」『週刊サンケイ』18(4)(928)サンケイ新聞社、1969年1月27日号
「強い奴に囲まれて 京春上」『サンデー毎日』49(5)(2670)、毎日新聞社、1970年2月1日号
西嶋公子『あたたかい地域介護を求めて』家の光協会、1993年

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。

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