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普及しすぎると価値が下がる? 定番ファッションへの評価が時代とともに変化する意外な理由/何がダサいを決めるのか⑧

  • 2026.4.29
何がダサいを決めるのか 平芳裕子/ポプラ社
何がダサいを決めるのか 平芳裕子/ポプラ社

『何がダサいを決めるのか』を第1回から読む

『何がダサいを決めるのか』(平芳裕子/ポプラ社)8回【全8回】

ファッションの世界では「おしゃれ至上主義」が常識。しかし、世間一般の価値観は少し違うようです。「似合ってないと思われたくない……」「年相応じゃない服は着たらいけない」なんて、見えないルールに縛られていませんか? まるで「ダサい」ことが悪のように扱われるこの空気、一体どこから来たの!? 本書ではそんなモヤモヤを一気に吹き飛ばすべく、服の歴史や社会背景をもとに「ダサい」の正体を徹底解剖します。常識を脱ぎ捨てて、もっと自由におしゃれを楽しもう! 私たちが囚われているファッションの常識をアップデートしてくれる一冊『何がダサいを決めるのか』をお楽しみください!

※写真はイメージです(画像提供:ピクスタ)
※写真はイメージです(画像提供:ピクスタ)

社会通念上の善悪の判断まで含まれる

「ダサい」という言葉は、「おしゃれでないこと」「野暮ったいこと」など、主に服装や外見に対して用いられてきました。しかしSNSで「ダサい」にまつわる発言を見てみると、必ずしもそうとは言えないケースも見受けられます。たとえば、ある投稿にこんなことが書かれていました。「マナーを押しつけるとはダサい」、または「肩書きを書かないとはダサい」などです。前者は服装のマナーだけではなく、なにかしら食事や職場でのマナーを誰かに強要する人のことを指しているようです。後者は、何か責任のある発言や仕事をするときに立場を明示しない人のことを指しているようです。もちろん、投稿者が念頭に置いている具体的な状況や人とは異なるかもしれません。しかしこれらの発言では、人々の服装や外見だけではなく、その人の振る舞いや態度に対して「ダサい」という言葉が当てられているのです。

服装がダサいということならば、「格好悪い」、「流行遅れ」ということで、おしゃれのセンスに秀でているかどうか、美的感覚に優れているかどうかという比較の問題です。おしゃれでなくったって、流行遅れだって、人格や態度が否定されるわけではありません。ところが、人の行動にこの言葉が当てはめられると、様子が違ってきます。「マナーを押しつけるとはダサい」、つまりそれはマナーを人に強要するのは間違っている、社会的な道徳に反している、ということを嗜める言葉にもなります。また、「肩書きを書かないとはダサい」とは、身分を明示しないとは不適切である、社会的な規範を外れている、ということを諭す言葉にもなります。これらの「ダサい」という言葉は、単なる見た目や服装の問題ではなく、道徳的に正しいのかどうかを問題としていて、そこには社会通念上の善悪の判断が含まれています。

「ダサさ」は絶対的なものではない

ではなぜ「ダサい」と言うのでしょうか。そもそも「野暮ったい」を意味する言葉で、人の行動の「不適切さ」や「誤り」を指摘するのはなぜなのでしょうか。「マナーを押しつけるのは良くありません」「肩書きを書かないのはダメです」と言えば良いものを、わざわざ「ダサい」という言葉を使うことには、なにか理由があるのでしょうか。もしかすると、「良くない」と否定する、あるいは「間違いである」と断定すると、他者から思わぬ反論や批判が出てくる可能性があるかもしれません。そういった状況を回避するために、好ましくない行為を「良くない」と直接的に否定するのではなく、「みっともないから改めた方が良いよ」と、見た目の問題にすり替えて穏便に意見を表明しているのではないでしょうか。

このように、人々の道徳的振る舞いにまで「ダサい」という言葉が使われるようになりました。私はファッションの研究をしているために、この言葉を不用意に使わないように注意しているのですが、日常生活で多くの人たちが、「ダサい」という言葉をさまざまな場面で口にしていることにしばしば驚かされます。ファッションとは全く関係のない話題で、「ダサい」という言葉に出会うのです。一般的に学者は言葉に注意を払うものと思われていますが、この言葉を気軽に使っている場面に遭遇します。「ダサい」という言葉の守備範囲の広さを感じさせられますが、一方である種の危惧も覚えざるをえません。

というのも、この言葉が人々の行動規範に対してまで便利に使われることで、服装に関する「ダサい」も少なからぬ影響を受けているように感じるからです。つまり、「ダサい」ことは「間違っている」、あるいは「悪い」ことのように受け取られてはいないでしょうか。「ダサい」と言われることは、単に「おしゃれでない」というだけでなく、自分自身まで否定されているような気になってしまうのではないでしょうか。

私たちは「ダサい」と言われることを恐れています。それは「おしゃれではない」ものですが、その「ダサさ」は絶対的なものではありません。何が「おしゃれ」であるかは時代とともに変わっていき、「ダサい」ものも時代とともに変化します。あるときは「おしゃれ」だったものが、時間がたつと「ダサい」ものへと変化していきます。「おしゃれ」なものばかりが世に溢れて、「ダサい」ものがもてはやされることさえあります。「ダサかわいい」や「ダサかっこいい」などという言葉が流行したように、「ダサい」ファッションが最先端にもなり得るのです。つまり、「ダサい」かどうかは、「おしゃれ」なものとの関係によって決まります。

なぜパーカーは「ダサい」と見なされがちなのか

では、そもそもおしゃれだと思って買った服が、いつの間にか「ダサい」ように感じられてしまうのはなぜなのでしょうか。フランスの思想家ロラン・バルトは、「モードとは、無秩序に変えられるためにある秩序である」という興味深い言葉を残しています。モードとは、フランス語でファッションを意味します。まるで言葉遊びのようですが、これはどのようなことでしょうか。

私たちの身の回りでは、目まぐるしく流行が変化しています。今年キラキラしたシルバーがはやれば、次の年はマットなブラックになったり、ビッグシルエットがきたと思えば、ぴったりサイズがおしゃれになったり。この先なにがはやるのかはわからないけれど、今おしゃれに感じるものも来年には古くなり、新しい流行がやってきます。つまり、流行の中身は意味もなく多様だけれども、それが廃れて古くなる、すなわち流行を外れて「ダサくなる」ことは運命づけられているということです。

では、どのようなタイミングで「おしゃれ」なものが「ダサい」と感じられるようになるのでしょうか。経済学では、富が富裕層から下層階級へ浸透するさまをトリクルダウン理論で説明しますが、ファッション論では、一部の特権的な人々から一般大衆へと流行が滴り落ち(トリクルダウンし)ていくさまに当てはめられます。社会の隅々にまで流行が行き渡ってしまうと、誰もが知るものとなり、新鮮味は失われてしまいます。すると、一部の特権的な人々は、また別の新しいスタイルを探して身につけるのです。

そこで考えてみたいのは、なぜパーカーは「ダサい」と言われがちなのかということです。「パーカーおじさん」が炎上してからというもの、コーディネートの専門家たちがさまざまな意見を述べました。そのひとりである「もり氏」はYouTubeの動画チャンネル「Jedia Fashion Channel」で、パーカーが「ダサい」と言われる理由を三つ挙げています。それは「普及しすぎ」であること、「着回し力が高すぎる」こと、あらゆる品質とデザインがひとくくりにパーカーと呼ばれていることだといいます。これは、誰もが同じようなパーカーを着ていて、自分もいつもパーカーを着ていて、どこでもパーカーが売っている状況です。

流行の蔓延によって、他者との服装の違いを示すことが難しく、没個性になりがちで、特別感も生まれにくい、そんな服になってしまっているのです。

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