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「もう地獄なんだけど」新・ドラマDEEP枠で真正面から描く“挑戦的な側面” 注目の俳優の“タブーを成立”させた演技

  • 2025.10.10

ドラマ『そこから先は地獄』は、30代目前の主人公が“安全な人生”から一歩踏み外していく過程を、あまりに繊細に、危うい筆致で描いている。主演は井桁弘恵。彼女が演じる矢嶌莉沙は、保険会社に勤める優等生タイプの妻だ。安定した結婚、都内のマンション、そして妊活。どれも順調に見えたはずの生活に、静かに綻びが生まれる。その綻びに差し込むのが、パーソナルジムのトレーナー・城内涼(豊田裕大)だ。

※【ご注意下さい】本記事はネタバレを含みます。

静かな妖艶さで立つ“やわらかな異物”

夫の浮気を疑いつつも、妊活もかねて莉沙が偶然に訪れたパーソナルジム。そこに立っていた青年の微笑みが、すべての地獄の入口になる。

豊田裕大演じる涼が最初に登場するシーンは象徴的だ。横断歩道で信号が変わるのを待ちながら「降ってこい、雨」とつぶやく莉沙。その直後、彼女の視線の先に、隣り合って立つ青年の姿がある。静かに笑っている彼が、涼だった。どこか、光に溶け込んで消えてしまいそうなほどの、淡い存在感。

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豊田裕大 (C)SANKEI

豊田の演技は、この静かな妖艶さで観客を惹きつける。声量ではなく、呼吸で間を支配する俳優だ。彼が口を開くたび、空気の密度が少しだけ変わる。笑顔なのに、どこか壊れたような哀しみが混じる。まるで、彼自身が“癒し”と“危険”を同時に孕んだ生き物のように。

この初登場だけで、“彼に近づいてはいけない”と視聴者が直感する。その違和感の演出を、豊田は言葉ではなく“目線”で示してみせる。その目の色に、すでに彼の抱える傷の深さが刻まれているようだ。

“DVを受ける男”というタブーを成立させた演技

莉沙の肩には、産まれたころからアザがある。かねてよりコンプレックスで、日頃から服で隠し、人目に触れないようにしている彼女。涼は、莉沙に対する鍼の施術中にたまたま目にしたその痣を見て「綺麗です」とつぶやく。

この一言が、彼女の心を一瞬で奪ってしまう。妊活に疲れ、夫に対する“女としての存在意義”を見失っていた彼女にとって、それは赦しにも似た言葉だった。

しかし、涼が発する言葉には、優しさと同時に奇妙な冷静さも感じられる。目を細めながら微笑んでいるようだが、瞳の奥には熱がない。人を褒めるというより、自分の壊れた心を慰めているようなトーンにも感じられる。

後に彼は、妻の凪子(山崎紘菜)からのDVに苦しんでいる被害者夫だとわかる。SNS上でも「DV妻なんて衝撃すぎ……」「もう地獄なんだけど」とコメントが多かったシーン。すると、莉沙の肩のアザに対する涼の言葉が、二重の意味を持って聞こえるのだ。きっと彼は、他人の痛みに共鳴することでしか、自分を保てない。

豊田の演技は、暴力を“受けている”ことを声高に語らない。代わりに、体の記憶として残している。いつ理不尽な暴力を受けるかわからない人間の癖を、そのまま再現しているように思えてならない。観ているこちらが思わず息を止めてしまうほどの、繊細な身体演技だ。

本作でもっとも挑戦的な側面は、この“男性の被害者性”を真正面から描いてる点である。暴力を受ける男は、これまでフィクションのなかでは“情けなさ”として笑われるか、単なる同情の対象として処理されてきた。しかし豊田は、被害者としての弱さを見せるのではなく、“傷ついた人間の色気”として昇華してみせる。

豊田はドラマ『夫婦の秘密』でも、秘密を抱えた夫を大胆に、かつ繊細に演じてみせたが、今回はさらに深い表現が求められる役どころだ。加害者ではなく被害者として、“無防備な男”の弱さと美しさを表現することで、ジェンダーの固定観念を揺さぶっているようだ。

痛みの美しさが、物語の狂気を支える

物語が進むにつれ、莉沙は涼に惹かれていく。しかし涼が差し出す優しさは、彼自身がDVによって歪めることになった“愛の形”でもあるのではないか。豊田の演技が見事なのは、その“危うさに包まれた優しさ”を表情一つで見せるところだ。

莉沙を見つめるときの笑顔は柔らかく、相手を包み込むよう。しかしカメラが少し引くと、目の奥が無表情になる。まるで、彼自身が“誰かの暴力”をなぞっているかのようだ。その一瞬の“ズレ”が、不倫サスペンスとしての不穏さを生み出している。

涼は癒しの存在でありながら、同時に破滅のトリガーでもある。暴力は暴力を呼び、支配は支配を、裏切りは裏切りを連れてくる……そんな人間の連鎖的な構造を、わずかな仕草で伝えてくる。豊田の表情が持つ“痛みの美しさ”が、このドラマを単なるドロドロ不倫劇から一段階、引き上げている。

『そこから先は地獄』というタイトルが示すのは、恋の地獄でも不倫の地獄でもない。人が誰かを“救いたい”と思った瞬間に生まれる、優しさの地獄なのかもしれない。そして、その地獄の入口に最初の一滴の雨を落としたのは、間違いなく俳優・豊田裕大の演技だった。


ライター:北村有(Kitamura Yuu)
主にドラマや映画のレビュー、役者や監督インタビュー、書評コラムなどを担当するライター。可処分時間はドラマや映画鑑賞、読書に割いている。X(旧Twitter):@yuu_uu_