1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「戦後も膿が永遠に続いていく」──コムアイ × 小林エリカが眼差す戦争。私たちはその記憶をどう紡げるか【終戦の日 2025】

「戦後も膿が永遠に続いていく」──コムアイ × 小林エリカが眼差す戦争。私たちはその記憶をどう紡げるか【終戦の日 2025】

  • 2025.8.14

語られなかった家族の戦争体験を記憶する

左から、作家・アーティストの小林エリカ、アーティストのコムアイ。
左から、作家・アーティストの小林エリカ、アーティストのコムアイ。

コムアイ 小林さんは『女の子たち 風船爆弾つくる』という本を書かれていますよね。私は生まれたのが、風船爆弾づくりが行われていた(福岡県の)小倉なんです。なのに、最近までその事実を全然知らなくて。小倉にある「北九州市平和のまちミュージアム」に行ったときに観た、おばあさんが証言するビデオが印象に残っています。「何をつくってるのか教えてもらえなかったけれど、和紙を毎日貼り続けて手が荒れて大変で。でも、工場で食べられるおにぎりが美味しくて……」と話していたんです。おにぎりの話をしているときの顔がぱっと明るかったことからも、それが本当に美味しくて楽しい思い出でもあることが伝わってきて、そのリアリティに衝撃を受けました。学徒動員で自分で選んだ作業でもないし、お金がもらえるわけでもないんだけども、美味しいおにぎりのために作業をしに行く。すると、気づいたら(戦争という)システムの一部になってしまっている、ということが現実なんだと思い知りました。私もアーティストとして広告やイベントに出たり、やっぱりいつも何かしらシステムの部品になっていると感じる瞬間があります。

小林 風船爆弾は第二次世界大戦中にアメリカ本土を攻撃するためにつくられた、和紙とコンニャク糊でできた直径10メートルの兵器です。実際にオレゴン州に到着した風船爆弾で子どもと妊婦を含む6人が亡くなっています。それを作っていた女学校が3つあって、かつてその1つだった雙葉高等女学校(東京都千代田区)から動員されていた南村玲衣さんという方にお会いしました。南村さんは、たまたま町を歩いてたときに書店を見たら、過去に自分が作っていたのと同じ風船の写真を見つけたと。それで本の表紙を見たら「風船爆弾」と書いてあって、40年目にして初めて自分が作っていたものが兵器でそれが人を殺したと知ったそうです。

その後、子育て中の主婦だった南村さんは、当時一緒に動員された同級生たちに聞き取りをしたりかつての防衛省に通ったりして、自費出版で本を出されています。当時、東京宝塚劇場が風船爆弾づくりの工場となっていたものの、それに関するまとまった本って南村さんの書いた1冊しかなくて、「自費出版までして、どうしてですか」とお尋ねしたら、「どうしてわたしは知らされていなかったんだろう」「秘密にされていたことへの抵抗」とおっしゃっていました。私も『女の子たち 風船爆弾をつくる』を出版してから、大事に残されてきた当時の写真やお話を手渡してもらうことがあったりして、まだまだ聞くべきことはたくさんあるんだということを実感しましたし、時間が経って本人たちが亡くなってしまっても、なかったことにはならないと強く思います。

コムアイ 1人1人が語るだけで、強靭な歴史が紡がれるっていうことがあるんですね。

小林 戦争中に起こったことや、ある人が存在したことさえ箝口令でなかったことにされてしまうけれど、それを明るみにできる可能性が80年そして100年経ってもまだまだあるんじゃないでしょうか。それこそ、コムアイさんが「被爆3世です」と語ることもそう。当事者がいなくなったら終わりってことはないじゃないですか。敗戦から80年が経って戦争体験を話せる人がいなくなったら、また戦争が起きてしまうんじゃないかとよく言われますが、『女の子たち 風船爆弾をつくる』を書いてからは、それは違うかもと思うようになりました。

コムアイ 今も戦後。もうずっと戦後、戦後が終わることはないですよね。私が被爆3世なようにずっと後の世代まで影響はあって、現在のイスラエルの異常な行動だって、第二次世界大戦におけるホロコーストの歴史が悲しくもドライブしてしまっている。そうやって膿みたいなものが永遠に続いていくのなら、一度戦争を始めたらおしまいです。だから、どうしたら始めないで済むのかを考えたいです。

私の祖父は広島で入市被爆をしていて、原爆手帳を持ってました。ただ、「おじいちゃんは風邪をひいても(手帳を)一度も使わないんだ」ってことが美徳として家族で語られていたことを憶えてます。直接的な影響がないから使わなかっただけなのかもしれませんが、祖父は自分の人生からその出来事を切り離そうとしていたのかもしれません。証言は詳しく語りませんでした。全く思い出したくないみたいで、蓋をしていたようです。広島出身で今は小倉に住む祖母には、たまに当時のことを聞かせてもらっています。小さい頃は満州にいて、そこから船で引き上げてきたときの話とか。亡くなった人がいると海に投げ捨てるしかなくて、そのときは汽笛を鳴らして船が3度廻るっていうのを教えてくれました。そういうことは聞かせてくれるのですが、どうしても祖父の被爆の話や当時の広島の状況になると口を噤むんです。

小林 語らなかった、そして手帳を使わないことを美徳としていた。語らない/語れない、ということそのものを記録することがすごく大事だと私は思います。私の父は第二次世界大戦中に満州・ハルビンで育っていて、金沢に戻ってきて憧れの高校に入れたタイミングで学徒動員されて飛行機をつくっていました。あるとき当時の父の日記が出てきて開いたら、「又一日、命が延びた」って書いてあったんですね。さらに読み進めると、敗戦の日には「よろめいた」って書いている。それくらい、自分たちが勝つことを信じてはずなんです。でも、父は私に「あんな戦争、そもそも勝つなんて思っていなかった」みたいな語り方しかずっとできなかったし、それ以上のことを絶対口にしなかった。私はそれを機に、こんなに親しくて何でも知ってる家族だと思っても、やっぱり語りえないこともあるんだなと知りました。私は裁判官でもジャーナリストでもないので、言えないことを無理に聞き出そうとはしないと決めていて、でも(当事者たちが)“語れなかった”ということをきちんと書き留めたいと思っています。語れるタイミングが訪れるかもしれないし、もしこなかったとしても、それ自体を記憶することが尊くて大事なのかも。

コムアイ たしかに語れないっていうことだけで、ものすごく語ってる。

小林 私自身は、歴史は繰り返すことをどうしても信じたくないんです。たった80年で女性も参政権を持てて、こうやって働けるようになってるのも全然当たり前じゃないですよね。それこそ私の祖母は文字も書けなかったけれど、3世代後の私が作家になれる時代がきています。そして戦後が80年続いてることもすごい。平和が“ふつう”と思っていたけれど、それも誰かが頑張って守ってきた80年で、戦争が始まったらもう戦後ですらなくなってしまいますから。だからこそ、90年そして100年と戦後を続けてくために、どうやって保っていけるのか考えています。平和に対して常に受け身だったけれど、自分たちでつくっていかないと平和は簡単に壊れちゃうということを最近になって認識しました。

丁寧に歴史を紐解かなければ、先には進めない

コムアイ 私は最初、原発から興味を持ちました。なんでこんなに危険なものが、地震ばかりの国にあるんだろうかと。もし戦争が起きて狙われたら危ないものでもありますし。自然災害にしても人災にしても、不安定な要素にあふれている社会です。福島の原発事故を見ればわかるように、何十年も住人を避難させなくてはいけないことも起きてしまう。そんな危ういものによく頼れるなって不思議で、知れば知るほど理解ができなかったのが中学生のときでした。この世界は大人たちができる限りいい状態に整えてくれていると思っていたので、そんな簡単なことではないんだと気づいたんです。じゃあ放射能ってなんだろう、実際人体にどういう影響を与えるんだろう、放射能に被曝するってどういうことなんだろう──、そう考えたときに初めて、そういえば日本は被爆国だったと認識しました。でもその時点で、自分が被爆3世だっていうのはあまり意識していなかったんです。家で語られていることとはすぐには繋がらなくて。ぼんやりしているなと自分でも思いますが、人間ってそういうものなのかも。

小林 原爆を開発し、水爆実験を続けてきた人間、原子力のエネルギーは平和のためのものですよ、という形で導入してきたこの国の政治家やそれを選んだ人々の選択に対して、どう間違っていたのかっていう振り返りを、私自身含め全然できていない気がしています。人が選んできたことだからこそ、どうしたら“今”じゃない道があったのか。原発を賛成・反対で議論するのはもちろん大事だけど、マリ・キュリーによって「放射能」という言葉が名付けられてから150年も経っていない今、その歴史を振り返らずにこの先100年もしくは1000年のことをどう考えたらいいのかなんて、わからないんじゃないかと。でも、社会が「コスパ」や「タイパ」とすごく忙しくて、みんなとにかく今の損得だけですぐに答えが欲しいですよね。

コムアイ 参議院選挙のタイミングで歴史修正主義に言及する投稿をしたらネット上でバッシングを受けて、「非国民」「お前みたいな人が日本をダメにしてる」みたいなメッセージが届いたり、「朝鮮人に違いない」といわゆる“在日認定”をされたりもしました。よくあることで慣れていたし、今まではそこまで届いたなら言った甲斐があったと思ってたんですけど、今回の選挙の結果を見て「本当に戦争が起きちゃったら、私、真っ先に殺されるな」って思ったんです。実際に関東大震災のときにも私のような人が殺されていて、100年前とそう変わってない。だからこそ、どうにかして戦争が始まるのを止めなきゃいけない、自由に発言できる空間を保たなきゃいけないっていうことを最近すごく考えます。

小林 関東大震災の虐殺があったときから今って地続きだったんだ、と私も最近すごく考えるようになりました。戦後日本は民主主義的な国になって、女性にも参政権が与えられて……と何もかもが新しくなったように語られますけど、根底が何も変わらないまま現在に続いていたんだと知ったとき、衝撃を受けました。戦中に翼賛してた人たちが戦後平気で返り咲いている。弱い立場にあった人たちは、真っ先に切り捨てられた。結局満州でも私たちの国も軍も、人々を見捨てた過去があったことがそのままで、反省がなく今に至っている。実は原発の話もすごく繋がっていて、関東大震災当時に警視庁官房主事として朝鮮人虐殺のきっかけとなったデマを事実認定した正力松太郎が、その後初代原子力委員会委員長になっているんですよね。過去を振り返らない、反省しないのだからすべてが地続きですよ。

コムアイ 関東大震災後に千葉県・福田村で起きた虐殺を題材にした『福田村事件』という映画に出演したことがあります。もし実際に自分が当時の村で生活する1人だったらどんな心情になるのか、フィクションでもあるので私にとってはその撮影自体が実験でした。たくさんの村人が見ていても虐殺を止められない、その理由がずっとわからずだったのですが、虐殺のシーンの撮影が始まると、私が村民でもきっと見殺しにするんだと気づいてしまいました。最初は村のみんなを説得しようとしていたけれど、誰かが誰かを実際に殺すのを見たら殺されるのが怖くなって、自分の身を守りたくなる。「私は絶対にこの村を出てやる。この忌まわしい記憶は誰にも話さず違う世界で生きて、子どもを産んで家庭を築く」そうやって決意して目の前の出来事から逃げた私がいて、最終的に自分はそっち側かもしれないとわかってしまったことが、ずっとものすごく胸糞悪いんです。だから、そうなるもっと前にとめなきゃいけない。戦後から始まるかもしれない戦争までの時間の難しさは、呑気な日常生活のなかでちゃんと、とめるべきことに気がつけるかだと思うんです。

小林 私の場合は自分もまた、簡単に大きなものに絡め取られるんじゃないかという怖さがあって。『女の子たち 風船爆弾をつくる』でいうと、とにかく頑張って風船をつくるタイプかもしれない。人の役に立ちたいとか、誰かのために何かしたいって全然悪い感情じゃないし、すごく大事なことだと教えられてきました。だからこそ、その感情が間違った方向に悪用される可能性があるということに気づかなかったら、自分も“みんなのため”に頑張ってしまいそうです。科学者の歴史を辿る漫画で主人公たちのことを書いていたときには、自分がマンハッタン計画のなかにいたら原爆開発に加担してしまうかもしれない、世紀の発見や今までにないものが見たくなってしまうかもしれない、とも思いました。「原爆をつくるなんておかしい」と言えた人たちは本当にすごくて、やっぱり私はそこで「ノー」と言えない側かもと常に考えています。なんなら、作家としてプロパガンダを書いちゃうかもしれない。そういう恐怖が大きくて、だから戦争のことをもっと早く知りたい。そうならないために何ができるのか、生き延びて引き返すためのポイントを把握しておきたいんです。

コムアイ その立場に置かれてる時点で被害者かもしれないし、でも絶対的に加害者でもある。どんな人も被害者、そして加害者になりうるけれど、「変える力」はみんなが持っていると思うんです。「私は加害者だからこれを語らなきゃいけない」、「被害者だから証言をするべきだ」ってわかりやすいですけど、小林さんは2つのどちらかの立場には決めつけないとおっしゃってますよね。

小林 かつて風船爆弾をつくっていた雙葉高等女学校って、カトリックの学校なんです。なのに真っ先に慰問袋を送って国に多額の献金をして……、要は軍国主義に賛同した。自分がカトリックの学校に通っていたこともあり、どうしてもそれが理解できず気になって調べるうちに、当時天皇が神とされていたからキリスト教は異端だったし、学校には外国人のシスターたちがいた。そんな弱い立場にあるものを抱える学校が存続するためには先頭を切って加担しないと、生き延びることさえできなかったと知りました。それって今も一緒で、最も弱い立場にある人はどうしても大きなものに迎合しなくちゃ生き延びられないのかもしれない。だから本当にギリギリの人たちが追い詰められてると気づいたときに、少しでも余裕がある立場の人たちが「それは違うよ」と声を上げなければいけないと、ハッとしました。

加害と被害を継承するのに必要なのは“主語”

小林 私はアンネ・フランクに憧れて、小説家を目指しました。実はアンネと父が同じ1929年生まれで、父は「大日本帝国の少年兵」、アンネは「ナチ・ドイツに殺されたユダヤ人の少女」ってことになったら、歴史上の立場だけ考えれば自分の父がアンネを殺したともいえる。でも同時にアンネは尊敬する作家で、父のことは大好きで……となったときに、それをどうやって理解したり捉えたらいいのかが今もずっとわからない。

コムアイ 2年前に久しぶりに「広島平和記念資料館」に行って、展示を見終わった後めちゃくちゃ悔しくてとにかく涙が出て。今もどんどん核兵器が拡散していて、日本は核禁止条約に参加していないじゃないですか、最初に展示を見たとき私はまだ小学生だったけれど、今はもう30代で選挙権も持っていて社会を作る側になった意識があるからこそ、そんな状況が情けなかったです。

モヤモヤした気持ちで資料館の下の階に降りていくと、小さな展示コーナーに日本軍がした加害が書かれていたのですが、展示の全体量に対して小さいので通り過ぎてしまう人もいると思います。これでは反省のしようがないのではないかと思いました。「原爆が落とされた」という文脈だけのスポットライトの当たり方になると、それは突然降ってくるもので、まるで天災みたいに「いつ起きてもおかしくない」ことのような認識になってしまいます。単純にアメリカを恨むしかないような。そうじゃなくて、そこに至るまでに日本が何をしてきたのかも考えないといけないですよね。加害の歴史を知って得た材料をもとに、原爆が落ちなかったかもしれない可能性を模索したいです。

小林 私はそこにすごく言葉の問題があると思っていて、空襲が「あった」とか、原爆が「投下された」とか、主語なく語られてしまう。けれど、必ず誰かが何かの意図を持ってやったことなはずです。「空襲は大変だった」「空襲をようやく生き延びた」みたいな語り方もそう。空襲って天災じゃないよね、地震でも津波でもないんだから、「あった」じゃなくて「した」んだなと思います。受け身だったり曖昧な言葉で、主語が省かれた状態でさらっと言葉上で流されることに自分も慣れすぎていたと気がつきました。たとえば「日本軍が南京を爆撃した」「アメリカ軍が東京を空襲した」とか、そこを意識するだけで違ってくるのかなと。

幼い頃、私は戦争っておじいちゃんおばあちゃんのものだと思ってたんですよ。だから今もやってるって知らなくて、ニュースで湾岸戦争を見たときに、現代にも戦争があることを初めて知りました。当時はなんで大人たちが戦争をとめないんだろうとすごく不服だったのですが、今私が大人になって参政権もあって、でも戦争をとめられていないことが本当に申し訳ないっていうか、もう悔しさしかないです。政治に対してもそうで、「私たちの国」の、今だと「私たちが選んだ自民党」なわけで、社会の一員である自分がこの国を作っているはずなのに、距離を持った話し方になってしまうことがあるな……と最近は考えたりしています。

コムアイ (戦争に反対したり、継承するために)やはり今の自分ができるいちばんの方法は歌なんだろうと思うんです。たとえば、気候危機について歌った曲とMVがもうすぐ出るのですが、社会課題についてもっとみんなに知ってほしい、もしくは考えてる人の支えになりたいと思って、それを音楽でやろうとすると結構苦労します。私は音楽をする脳と社会的なことを考える脳が別になっているみたいで、音楽が育つままに見守るほうが身軽だし豊かに感じられたりもして、もう掛け合わせることはやらないほうがいいんじゃないか……と思うことも制作中にはあったりします。どちらかがどちらかの搾取にならないよう、今試してるところです。そのなかで私が大事かつ得意にしてるのは、シニカルさやユーモア。戦争をテーマとして扱うときにどうやってそれを入れるかはさらに難しいなと思いつつ、挑戦してみたいことでもあります。

小林 戦争も気候変動も、結局は“弱いところ”に皺寄せがいきますよね。日本が植民地化していて今も影響が残るマーシャル諸島は後に核実験場となり、現在は気候変動による海面上昇の被害にさらされています。それを私はマーシャル諸島出身の詩人で、アーティスト・アクティビストの

キャシー・ジェトニル=キジナーが書いた『開かれたかご マーシャル諸島の浜辺から』(一谷智子訳、みすず書房)という詩集を読んだときに初めて知って、日常生活のなかにいながら、そこに繋がる一直線が見えたように感じられました。

毎日精一杯だと見過ごしてしまったり気がつけさえしないことに、私は詩集を読んだから辿り着けた。歌を聞けた、映画を観られた、本を読めた──、そこから光が見える瞬間がどんなに忙しい日常のなかでも、ちょっとだけあったらいいなと強く信じているところが私はあって、だから文化が好きです。直接的に歴史の研究をする方や、さまざまなジャンルで頑張っている方たちがあって初めて自由に発言できたり、楽しく創作できることはありつつ、たとえ小さくても、やっぱり1人1人が無力じゃないって思えることがあってほしいし、それをいくつも知りたいと思う、そこに尽きます。

Profile

コムアイ

声と身体を主に用いて表現活動を行うアーティスト。日本の郷土芸能や民俗学、北インドの古典音楽に影響を受けている。現在は日本とブラジルのバイーア州に滞在し、ペルーのアマゾンでの出産体験を本にするべく執筆中。主な音楽作品に、屋久島からインスピレーションを得てオオルタイチと制作した『YAKUSHIMA TREASURE』や食品まつりa.k.a foodmanと発表した『FANI MANI』。環境問題をはじめとした社会問題に取り組むアーティビズム・コレクティブ『HYPE FREE WATER』をビジュアルアーティストの村田実莉と立ち上げ、貨幣について考える実験的アートイベント『おかしなおかね』を主催、Podcast番組『ぺらぺ~らの泉』を毎週土曜日に配信中。NHK『雨の日』、Netflix『Followers』、映画『福田村事件』などに出演し、俳優としても活動。2021年まで音楽ユニット・水曜日のカンパネラのボーカルとして活動。

小林エリカ

1978年東京生まれ。作家、アーティスト。現在、東京在住。目に見えないもの、時間や歴史、家族や記憶、声や痕跡を手がかりに、入念なリサーチに基づく史実とフィクションを織り交ぜた作品を制作する。著書は小説『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋)で第78回毎日出版文化賞受賞。他に『おこさま人生相談室』(柏書房)、”放射能”の歴史をたどるコミック『光の子ども1~3』(リトルモア)、訳書に『わたしは なれる』サンギータ・ヨギ(green seed books)ほか。国内外の美術館やギャラリーで展示も手がけ、弘前れんが倉庫美術館、川崎市岡本太郎美術館でグループ展に参加中。アートコレクティブ「爆心へ」として広島、長崎へとバスを走らせ、8月15日、16日には日比谷図書館地下ホールにてポップアップ展示、バスツアー、上映とトークなどを企画している。

Photos: Marisa Suda Editor & Text: Nanami Kobayashi

READ MORE

元記事で読む
の記事をもっとみる