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知ってた?第一次世界大戦は「運転手の道間違い」が発端の一つだった

  • 2026.6.28

誰もが知っている場所や歴史の裏側のある意外な事実を紹介する「知ってた?」連載。今回は、第一次世界大戦の引き金となったと言われるサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの中心都市)での暗殺事件の裏側に、運転手の道間違い、あるいはルート変更の伝達ミスがあったという説を紹介します。「サラエボ事件」と呼ばれるこの出来事は、今から112年前の今日、1914年6月28日に起こりました。

世界大戦の背景にある意外な偶然

1914年(大正3年)7月28日に開戦した第一次世界大戦の引き金は、ボスニア・ヘルツェゴビナの中心都市サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子、および皇太子妃が、セルビア人青年に暗殺された事件であると歴史の教科書で習ったと思います。

しかし、実際には、もう少し複雑ないきさつがあって、皇太子夫妻を乗せたパレードカーを運転していた運転手が、ルート変更されたはずの道を間違えたために(あるいは、ルート変更の指示がうまく伝わらなかったために)、一度は犯行を諦めた暗殺者に殺害のチャンスを与えてしまったとご存じでしょうか。

事件は、1914年(大正3年)6月28日の日曜日に発生しました。その朝、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子、および皇太子妃は、同帝国領内であるボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治領の軍隊を視察するためにサラエボを訪れていました。

皇太子夫妻を乗せたパレードカーの暗殺当日の様子。現在とは異なり、当時のパレードは、パレードカーで市民の目の前を通過するなどが一般的だった

ボスニア・ヘルツェゴビナの中心都市である当時のサラエボは、詳しくは後述するとして、必ずしも治安がいい状況とは言えませんでした。

現地当局も、皇太子夫妻暗殺の可能性を示す警告を事前に受け取っていたとされています。しかし「皇太子暗殺が現実に起こり得る」というリスクを過小評価して、軍を大規模に動員するような厳重警備を、警護を担当する現地当局は採用しませんでした。

また、そもそもの前提として、当時の警備体制のレベルは、現代の要人警護と比較すると大きく劣り、要人を乗せたオープンカーが市民の目の前を通過するような状況が普通に存在していました。

そうした当時の常識と、現地当局によるリスクの過小評価が重なった結果、当日の警備は極めて手薄となりました。警護官一人と地元の警察官三人が近接警護に当たるのみだった、との情報もあります。

皇太子夫妻

その手薄な警戒態勢の中であっても最初、ボスニア・ヘルツェゴビナに暮らすセルビア人の民族主義者らによって計画されていた皇太子、および皇太子妃の暗殺は失敗に終わりました。

ルートが事前に発表されていた皇太子夫妻のパレードカーに対し、最初の犯行人が小型爆弾を投げようとするもチャンスを逃します。二人目の犯行人も、セミオートの拳銃を抜けないまま好機を逸しました。

三人目も小型爆弾を投げましたが、皇太子夫妻の乗る車のほろに当たるだけでした。落下した爆弾は後続車の下に転がって爆発し、乗車していた将校たちが負傷します。しかし、皇太子夫妻は無傷だったため、パレードカーは加速して現場を離れ、予定されていた訪問地の市庁舎へと向かいました。

パレードのルート上で待ち構えていた残りの犯行人たちについては猛スピードで走り去る車に手出しすらできずに終わります。

要するに、計画・準備されていた暗殺は失敗に終わりました。このまま犯行計画が未遂に終われば後の歴史は変わっていたかもしれません。

パレードカーが暗殺者の前で停車した

市庁舎を出て病院へ向かう皇太子夫妻。襲撃後も、衆人の前にあえて姿を現した

しかし、奇襲を受けた後の皇太子の判断が結果として、夫妻の運命を大きく変えてしまいました。

市庁舎での公務を終えた皇太子は、爆破によって負傷した将校たちの搬送先である病院を見舞いたいと急きょ希望しました。

当然、外出の中止が進言されましたが、テロリストに屈しない姿勢を示すべきだという皇太子本人の意向もあり、皇太子妃も同行を希望したため、皇太子夫婦は再び、衆人の前に姿を現してしまいます。

市庁舎から出て、警戒態勢の中でパレードカーに乗り込むと、従来の予定されていたコースではなく、負傷者の収容される病院を両人は目指しました。

この時、不幸にもミスが起こります。

運転手がミスを犯したのか、事前の情報共有に不足があったのか、この点についての見解は歴史家の間でも意見が割れていますが、皇太子夫妻を乗せた車は、事前に公表されていた従来のパレードルートに入ってしまいます。

ルートの間違いに気付いた運転手は車を停め、引き返そうとします。しかしその場に、暗殺者の一人であり、皇太子夫妻の射殺に成功した、セルビア人のガヴリロ・プリンツィプが居合わせてしまいました。

暗殺者のガヴリロ・プリンツィプ

プリンツィプは、道を間違えて引き返そうとするパレードカーを目撃すると、向かいの店から外へ飛び出します。

わき目もふらずに道を渡ると、皇太子夫妻に接近し拳銃を抜いて、至近距離から2発の銃弾を発砲しました。銃弾は、皇太子の首を貫き、皇太子妃の腹部に命中します。

子どものために生き残ってほしいと苦しみながら皇太子は皇太子妃に伝えたとされますが、間もなく二人は亡くなりました。

この出来事が発端となって、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告を発し、同盟や民族的なつながりによって各国の参戦を次々と招いて、第一次世界大戦を生んでしまったのです。

サラエボの銃撃がなぜ世界大戦になったのか

暗殺のニュースを報じる報道

宣戦布告から第一次世界大戦に発展していく経緯は、当時の時代背景をおさらいすると理解しやすくなります。

オーストリア=ハンガリー帝国の一部であるボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治領に暮らしていた暗殺者のプリンツィプはセルビア人です。

セルビア人とは、ヨーロッパ最大級の民族グループであるスラブ人の一種で、オスマン帝国に支配されていたバルカン半島(南東ヨーロッパ)において1878年(明治11年)に民族独立を勝ち取り、1882年にセルビア王国を立ち上げた民族でもあります。

現在のバルカン半島の地図

そのセルビア人たちは、オスマン帝国から独立し、セルビア王国を打ち立てた上で、周辺に散らばるセルビア人の居住地域も1つの国としてまとめたいと思うようになりました。

しかし、その勢力拡大を、オーストリア=ハンガリー帝国(中央ヨーロッパに位置)が警戒します。

1914年のオーストリア=ハンガリー帝国の位置。ボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治領は緑色の帝国領の南端に位置する。画像:The Austro-Hungarian Monarchy in 1914.|TRAJAN 117|CC BY-SA 3.0(Wikipedia掲載)のベクター画像をトリミング

そこで、オーストリア=ハンガリー帝国は、オスマン帝国の衰退に伴い、1878年(明治11年)から実質的に管理していた、オスマン帝国領ボスニア・ヘルツェゴビナを1908年(明治41年)に併合し、ボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治領にします。事件から6年前の出来事、日本では、日露戦争が終わって数年という時代ですね。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治領にはセルビア人も多数暮らしていました。セルビア人の統一国家をバルカン半島に打ち立てたいと願うセルビア人の中には大変な不満が生じます。

暗殺者のプリンツィプもその不満分子の一人でした。大セルビア主義を掲げる過激な民族主義者の秘密結社『黒い手』とつながりがあったテロリストだとされています。『黒い手』は、セルビア王国の軍隊からも支援を受けていた組織でした。

宣戦布告の連鎖

暗殺直後の様子

この事件を受け、セルビア王国の関与を疑ったオーストリア=ハンガリー帝国は同国に宣戦布告(1914年7月28日)します。その宣戦布告が、同盟や民族的なつながりによって各国の参戦を次々と招き、世界大戦へと発展していきました。

例えば、同じスラブ人(セルビア人はヨーロッパ南部に移住した南スラブ人)のロシアが、スラブ民族の保護を名目に兵力の総動員を開始します。

ロシアの動きを見て戦争になると考えたドイツは、オーストリア=ハンガリー帝国と同盟関係にあったため、ロシアに対して宣戦布告(同年8月1日)します。さらに、ロシアと同盟を結んでいたフランスに対しても、挟み撃ちをされる前に宣戦布告(同年8月3日)しました。

ドイツは、フランスに攻め込む際に、フランスの強固な国境要塞を避けるため、ベルギーを迂回路として選びます。その侵攻を受け、ベルギーの中立を守ると約束していたイギリスが看過できないとしてドイツに宣戦布告(同年8月4日)します。

最初の宣戦布告からわずか1週間程度の出来事です。この連鎖的な悲劇の裏側には、運転手の道間違い、もしくは情報伝達のミスも一つに存在したのですね。

裁かれる暗殺者たち。プリンツィプは前列中央

暗殺者のプリンツィプは犯行後、未成年だったために死刑にならず(当時の帝国法律で死刑の適用年齢である20歳に達していなかったため)、懲役20年の判決を受けました。

しかし、刑期を全うする前に獄中で結核を患い悪化し、第一次世界大戦の終結する7カ月ほど前の1918年(大正7年)4月に死亡しました。自らが引き金となった第一次世界大戦の結末を知らないままこの世を後にした形になります。

以上が、教科書には載っていない、有名な歴史の裏側にある意外な事実です。世界史の出来事や年号、今はない国名がたくさん登場しました。繰り返し読んで、ぜひ理解を深めてみてくださいね。

 

[参考]
※ Sarajevo 1914 - University of Cambridge
※ The Assassination of Archduke Franz Ferdinand - A&E Television Networks
※ Assassination of Franz Ferdinand on June 28th 1914 - Museum of Military History
※ ブリタニカ『ブリタニカ国際大百科事典』 
※ 平凡社『世界大百科事典』
※ 共同通信社『共同通信ニュース用語解説』
※ 小学館『大辞泉』
※ Sarajevo Incident - International Encyclopedia
※ TWE Remembers: The Assassination of Archduke Franz Ferdinand - Council on Foreign Relations

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