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【衝撃の告白】GG佐藤が明かす北京五輪の裏側…“張り切った代償”ゆえ「実は痛み止めで頭がフラフラだった」

  • 2026.5.30

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現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第9回は、星野が日本代表監督を務めた2008年北京オリンピックの際に主力として共に戦ったGG佐藤に話を聞いた。【GG佐藤インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

2008年、30歳での大ブレイク

愛知県大府市出身の父の影響で、幼い頃から中日ドラゴンズファンとして育った。テレビの中で見る星野仙一は、すでに「選手」ではなく、「監督」となっていた。少年時代のGG佐藤(以下、GG)にとって、大好きなチームを率いる闘将は、「ベンチを蹴り飛ばす監督」として、強烈なイメージで焼きついている。

「近藤選手がノーヒットノーランを達成した試合。あれは確か星野さんが監督でしたよね。あの試合はすごく印象に残っていますね。高卒ルーキーが初登板で、いきなり大記録を達成した。あの頃は熱心にテレビ中継を見ていたし、強烈にドラゴンズを応援していましたね」

GGが口にしたのは、星野政権1年目となる1987(昭和62)年8月9日、ドラゴンズのドラフト1位ルーキー・近藤真市(真一)が読売ジャイアンツを相手にノーヒットノーランを成し遂げた一戦を指していた。その日は、後の「GG」こと、隆彦少年にとっての9歳の誕生日でもあった。

しかし、桐蔭学園高校から法政大学を経て西武ライオンズ入りした後も、星野との接点は皆無だった。

「接点? まったくないですよ。東京六大学のOB会、記念イベントなどで見かけたことはあったかもしれないけど、会話をしたことなんて一度もない。僕にとって、法政大学の先輩である山本浩二さん、田淵幸一さん、そして明治大学OBの星野さんは、三大武将(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)がそろい踏みしているくらいの感覚なので、大先輩たちには話しかけることもできないし、ちょっとしたコミュニケーションも取りにくかったですから」

そんな彼に星野へ通ずる運命の扉が開かれたのは2008(平成20)年、北京オリンピックのときだった。前年には、ようやくレギュラー定着の兆しを見せていた。当時チームメイトだった和田一浩に「金魚のフンのように」つきまとい、その技術や間合いを必死に吸収していた。そして、その和田が08年にドラゴンズにFA移籍したことによって、レギュラーを奪取。交流戦での大爆発も追い風となり、代表の追加招集メンバー候補として名前が挙がったとき、GGは確信していた。

「正直、あの頃の僕は絶好調だったから、“オレが選ばれなかったら誰が北京に行くのよ”という感覚でしたよ。実際に代表に選ばれたときも、“それはそうだよね”という感じ。当時の日本代表は各チームからの寄せ集めで、今みたいな常設チームとは全然違ったんです。だから、まったくプレッシャーを感じることなく、“よし、やってやるぞ”という気楽な感覚でしたよね」

この年のオールスターファン投票では、両リーグを通じて最多得票数を獲得して初選出された。また、この年から始まった選手間投票でも全選手を通じてのトップとなった。まさに完全無欠。このときのGGに、怖いものなど何もなかった。

「長嶋さんの前でいいところを……」と、右肩を故障

しかし、夢の舞台への切符は、同時に悪夢の始まりでもあった。代表合宿の際に初めて星野と対面した。指揮官は、GGに「レフトでの起用を考えている」と告げたという。その直後には、読売ジャイアンツの2軍本拠地であるよみうりランドでの合同練習が行われた。このとき初めて、「君がGGくんか。頑張れよ」と、視察に訪れていた「あの長嶋茂雄」に声をかけられた。テンションが上がった状態のまま、外野ノックを処理すると、その返球の際に右肩を痛めた。トレーナーには伝えたものの、「このチャンスを逃したくない」という一心で、星野には伝えず、座薬や鎮痛剤を駆使して痛みを押し殺す日々が始まった。

「完全に舞い上がっていましたね。“よし、長嶋さんの前でいいところを見せよう”と思いっ切り送球したら、その瞬間に激痛が走った。今だから言えますけど、そこからはずっと肩が痛すぎて薬漬けでしたよ。注射も打ったし、飲み薬も飲んで、ケツから座薬も入れて。薬を飲んでいるから感覚が麻痺しているのか、変なフラフラ感もありましたね」

体調万全ではなかった。それでも、GGに悲壮感はなかった。いや、それは「緊張感はなかった」と表現したほうが正確だろう。当時の心境について、本人はこう振り返る。

「確かに体調が万全ではなかったし、不慣れなレフトを守ることにもなったけど、それでも、“別に国際大会で負けたとしても、自分の生活を奪われるわけじゃない”という思いはあったし、“なんとかなるだろう”と安易に考えていた部分も正直ありましたね」

プロ入りが遅く、レギュラーを奪取したこのとき、すでに30歳になっていた。日々のペナントレースを、GGは「命懸けで臨んでいた」と振り返る。しかし、国際大会である北京五輪には、そこまでの覚悟はなかった。本人が振り返る。

「それまで、代表経験なんてないから、あくまでも、“日々の生活のほうが重い”と考えていたので、《日の丸の重さ》を知らなかったんです。北京に着いてからも、球場は仮設のもので、まったく立派なスタジアムじゃなかった。選手村ではなく、日本料理が充実して、日本人スタッフの多い日本のホテルに滞在していた。雰囲気としては、“普通の地方遠征”という感覚で、オリンピックという実感がほとんどないまま大会が始まりました」

このとき、チームを包んでいたのは、星野監督が公言し続けた「金メダル以外はいらない」というすさまじい熱量だった。しかし、その思いは、「銀メダル、銅メダルには価値はない」という逆説的な意味合いを持つことにもなっていた。当時のGGはまだそのことに気づいていない。いや、彼だけではなく、他の代表選手たちも、そして星野自身も気がついていなかった。GGは言う。

「間違いなく、“金メダル以外はいらない”という星野さんの言葉は、僕たちを鼓舞することになった。細かいことは何も言わずに、“金メダルこそすべて”というメッセージは強烈だったけれども、“もしも、金メダルを獲れなかったら……”という発想を誰も持っていなかった。それが後々、大きな意味を持ってくることになるんですけど……」

北京五輪本番、準決勝での2つのエラー

初陣となったキューバ戦に敗れる苦しいスタートとなったものの、4勝3敗でなんとか予選リーグを勝ち上がって準決勝に進んだ。8月22日、金メダルを目指す星野ジャパンの前に立ちはだかったのが、長年にわたって「宿命のライバル」と称される韓国だった。

「序盤は2点をリードしていたけれど、試合の空気は予選とは別物でしたね。4回裏、レフト前に転がるゴロヒット。本来なら落ち着いてさばける打球を、肩の不安があるから“早く投げて、早く処理しなければ”と焦ってしまって……」

それは、何でもない平凡なゴロだった。しかし、この打球をGGはトンネルしてしまう。そして、後続打者のゲッツー崩れの間に韓国は得点を挙げる。

「あんな簡単なゴロが捕れないなんて……。これでオレのせいで負けたらヤバいぞ。本当にそう思っちゃったんです。その後、守備に就くたびに、“マジで打球飛んでくるな”って、心から願っていましたね」

まるで、野球を始めたばかりの自信がない少年のように、「打球よ、飛んでくるな」と思いながら、GGはグラウンドに立っていた。しばらくの間は、その願いが通じていた。しかし、同点に追いつかれ、8回に逆転を許した直後、再び打球が飛んできた。レフトフライだ。上がった瞬間、彼はセンターの青木宣親に「青木、捕ってくれ!」と願った。しかし、それはGGが処理すべき打球だった。

「8回のフライはセンターの青木と僕の間に飛んできました。青木は守備がうまい。だから内心では、“青木が捕ってくれないかな”と思っていました。口には出さなかったけど、心の中では“アオキーーーーーー!”って叫んでいました。でも、実際は完全に僕が捕る打球でしたけど……」

そして、ボールは無情にも、GGのグラブからこぼれ落ちた。

「4回にゴロをエラーしてから、その間にフライが飛んでこなかったんです。だから、ずっと不安な気持ちのままで守っていました。もしもこの間にイージーフライでも処理していれば、もっと気楽な感じで守れたかもしれなかったんですけど……」

試合後、阿部慎之助や森野将彦に食事に誘われ、「気にするなよ」と励まされたが、彼の心はすでに閉ざされていた。もう何も考える余裕などなかった。星野の顔も見ることはできなかった。星野もまた、何も言おうとしなかった。

「星野監督からは何もなかったし、正直、誰の言葉も耳に入らなかった。もう切り替えるなんて無理。翌日の3位決定戦も、出たくないという気持ちもあって、何の準備もせずベンチから応援するつもりでいましたね。あのとき、さらに試合に出続けるメンタルは、さすがに僕にはもう残っていなかった……」

しかし、彼の苦難の道はなおも続く。翌23日、銅メダルをかけた3位決定戦でも、GGはスタメン起用され、3点リードで迎えた3回に、またしても浅いレフトフライを落球してしまうのである——。

後編に続く)

Profile/GG佐藤(じーじー・さとう)
1978年8月9日生まれ、千葉県出身。桐蔭学園高校から法政大学を経て、2003年ドラフト7巡目で西武ライオンズに入団。登録名を「GG佐藤」とし、フルスイングを武器に長距離砲として台頭。07年からレギュラー起用が増え、翌08年には前半戦だけで20本塁打を放つなど大ブレイクを果たす。同年の北京五輪日本代表に選出されるも、準決勝、3位決定戦での失策により大きな試練を味わった。12年にイタリアリーグ、13年に千葉ロッテマリーンズを経て、14年に現役引退。引退後は野球評論家となり、「日本一失敗を語れる男」として、執筆や講演活動も精力的に行っている。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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