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「殺傷シーンより目を逸らしたくなった」佐藤二朗×MEGUMI“史上最悪で最高”のラブシーン。映画『名無し』【レビュー】

  • 2026.5.26

映画『名無し』が5月22日より劇場公開中だ。目玉となるのは、佐藤二朗が大量殺人事件の犯人を演じていること。さらには、主演のみならず漫画原作と共同脚本までをも手がけていることも見逃せない。

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人によっては、『爆弾』以上の衝撃

佐藤二朗はドラマ「勇者ヨシヒコ」シリーズや映画『新解釈・三國志』など福田雄一監督作品でのギャグキャラクターの印象も強いが、2025年の映画『爆弾』では、精神を逆撫でするような、挑発的で不気味な印象が強烈な印象を残した。

『名無し』の衝撃は、人によっては『爆弾』以上だ。佐藤二朗がほとんどしゃべることなく、次々に人間を惨殺していく画のインパクトもさることながら、そのたたずまいが人ならざる怪物にさえ見える瞬間もあるからだ。

一方で、主人公の全てが理解できないというわけではなく、むしろ「そうなってしまった理由」が丹念に描かれている。

人気俳優の佐藤二朗が、その逆に「失うものが何もない」、いわゆる「無敵の人」を自ら演じ、さらに脚本家として「構造の上手さ」もある物語を紡いだことに迫力を感じさせる。

PG12指定でもやや甘い殺傷描写には注意

なお、「殺傷流血の描写がみられる」という理由でPG12指定がされているが、そのレーティングではやや甘いと思えるほどに殺傷シーンは直接的かつ刺激的だ。意図的にせよ、観客に精神的な負荷を与える内容であることは留意の上でご覧いただきたい。

一方で上映時間は82分とタイトであり、余計なことはいっさいしない緻密な構成かつ、全体的にテンポが良く、先が気になるエンターテインメント性も存分にあるため、重い題材に対しては比較的「観やすい」内容とも言えるだろう。

それ以外の予備知識はなくてもいい、というくらいだが、ここからは内容に触れつつ、「観る意義」を記していこう。

※以下、映画『名無し』の決定的なネタバレは避けつつ、一部内容に触れています。

「凶器が見えない」理由は?

無敵の人による殺人事件は、言うまでもなく現実に起こっている。しかし、この映画『名無し』では、現実にあり得ないファンタジー要素が、かなり目立つ形で存在している。それは殺人鬼が「持っているはずの凶器」が「目に見えない」ということだ。

この「凶器が見えない」設定は佐藤二朗の発案によるもの。「普通の日常の中に狂気が潜んでいるシーンを自分で演じたいなと思った」ことがそもそもの始まりで、「笑っていると思ったらいつの間にか泣いているとか、怒っていたのになんか笑っちゃうとか、言葉で説明できないような笑いや怒り、曖昧な感情、そういう人間の瞬間に僕は興味があって面白みを感じる」と考えたその時に、この設定を思いついたのだそうだ。

何しろ、冒頭のファミレスの会話シーンは「男がものすごく鋭利な刃渡りの長い出刃包丁をずっと持っているが、話し相手の女性は全くそれに触れずに受け答えをしている」という、まさに「日常の中の狂気」そのものに見える。

「どう考えてもおかしい」ものであるし、その後の殺傷場面も含めて「何を見せられているんだ」「どうしてこんなことに?」と良い意味で困惑してしまうだろう。

筆者自身の言葉で言えば、「凶器が見えない」ということは「突発的な殺意はその寸前にわかるはずもない」「それほどの狂気は日常のどこかに潜んでいる」という普遍的な事実のメタファーにも思えた。そこには「悪い冗談」のようなシュールさも確実に含んでいるが、それは同時に実際の通り魔や殺人事件に遭う「理不尽さ」そのものではないか。

さらに、共同で脚本を務めている城定秀夫監督によると、原作の漫画に加える形で、主人公の「触れたものを見えなくする(消す)右手」に「意味付け」をしているそうだ。それは「その名前を知らないものであれば触っても消えないし、名前を知っていれば消える」「認識していないものは、この世に存在していないのと同じ」というもので、哲学的な要素を色濃くしたのだという。

また、主人公の持つ凶器はそのままでは見えないが、水面やメガネのレンズなどの「虚像」には映っている、という視覚的なルールも設けられている。そこには画な面白さもあるし、それをもって主人公の「空虚な殺意」を示している、という解釈も可能だろう。

他にもいろいろと考察が膨らむ設定ではあるので、ぜひ観る人それぞれで「触れたものを見えなくする右手」の意味を考えてみてほしい。

「無敵の人を生まない」ためのヒントがあるかもしれない

本編では「主人公・山田太郎が少年時代を過ごした昭和」「11年前の2015年」「大量殺人事件が起こった現在」という3つの時代が代わる代わる展開していく。その構造をもって、「なぜ彼が大量殺人事件を起こしたのか」という感情の理由を解き明かしていく過程が、とても巧みだ。

観客は山田太郎の人物像と来歴を徐々に知っていくわけだが、そこには確実に絶望がある一方で、確実に「そうならない」「そうさせない」ための希望が逆説的に込められているとも思える。そのことがわかる、「山田太郎はどんな人物像を思い描いていましたか?」という質問に対しての、佐藤二朗の言葉をプレス資料から引用しておこう。

引用----

社会は機会の均等を唱えているけど、現実にはそれができていない。神さまから与えられたカードが圧倒的に「貧困」だったり、どう考えても逆転不可能なカードしか配られない場合も残念ながらたくさんあるし、それによって社会的な事件も起こっている。理不尽なのは仕方のないことだとわかりきっていても、人間の温もりやつながりがそれに負けて欲しくないという思いが僕の中にはあるんです。完全な絶望というのは人と人のつながりがなくなったときに訪れるような気がしていて、誰かとつながれているうちは、とりあえず明日は生きていけるんじゃないかと。神さまの気まぐれなカード配りに勝てるのかどうか、山田太郎はそれを試されている存在でもあるんです。

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まさにその通りだ。本作の主人公は幼少期から孤独ではあったが、名付け親となる警官(丸山隆平)や、その右手のことも理解する女性・花子(MEGUMI)と出会い、確実に人間の温もりやつながりを見つけていく。それでも、なぜ彼はそのつながりをなくしてしまい、完全な絶望へと追いやられてしまったのか……その過程は決して他人事ではなく、普遍的な「無敵の人を生まない」ためのヒントがあるようにさえ思えたのだ。

また、『名無し』というタイトルに反して、主人公には「山田太郎」という名前が付けられている。しかし、その安易な名づけ方もまた彼の「闇」に関わっていたのではないか、なんなら殺人の動機のひとつになっていたのではないか……と、まさに名前について話していた冒頭のファミレスでの会話からも想像できる。そのように何気ないシーンにも「意味」があるので、見逃さない、聞き逃さないようにしてほしい。

MEGUMIとの史上最悪(褒め言葉)のラブシーンも見もの

他にも、本作には印象に残る、いや目に焼き付くほどにインパクトのある画がある。たとえば、佐藤二朗とMEGUMIがキスをする場面があるのだが、MEGUMIからは「邦画史上最も不細工できたないラブシーンにしようよ」という提案があり、佐藤二朗はそれを聞いた瞬間に、この映画を本質からよく理解してくれていることを感じて、「勝ったな」と確信したのだそうだ。

確かに、このシーンは物語の流れとしても「いいことであるはずがない」もので、ある意味では殺傷シーン以上にスクリーンから目を逸らしたくなった、史上最悪(褒め言葉)のラブシーンだった。

また、本作はそのラブシーン以外でも、「画面上の美しさや良さげな言葉ではごまかさない」真摯さを感じた。

たとえば、序盤から佐々木蔵之介演じる警官が、冗談のように事件を茶化す同僚たちを、とある言葉を添えて一喝する場面がある。さらに、原作漫画とは異なるクライマックスの舞台、さらにはラスト付近の強烈なセリフもまた、やはり「いい話にしない」意図をはっきり感じさせないものだったのだ。

改めて、本作で描かれるのは「無敵の人が大量殺人事件を起こした物語」だ。現実に同様の事件が起こるからこそ、それを観る意義はある。さらに、「ごまかさない」アプローチは、問題を真剣に考えるきっかけになるし、ファンタジー要素であるはずの「触れたものを見えなくする右手」の意味も深い思考を促してくれている。それらをもって、観る人それぞれが「そうならない」「そうさせない」ためのヒントを見つけてほしい。

文=ヒナタカ

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