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第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展が開幕!そもそも「ヴェネチア・ビエンナーレ」とは? その歩みを解説

  • 2026.5.11
ヴェネチアのカステッロ地区の公共庭園ジャルディーニに位置する中央館。1894年に建設されたビエンナーレ最初の展示館で、アルセナーレと並ぶ国際展のメイン会場。今年のビエンナーレの会場風景より。 Hearst Owned

なぜヴェネチア・ビエンナーレは特別なのか

そもそも「ビエンナーレ(Biennale)」とは、イタリア語で「2年に1度」を意味する単語だ。隔年で開催される芸術祭であるためこの名前がつけられた。ちなみに、ビエンナーレとともに芸術祭の名称としてよく使われる「トリエンナーレ(Triennale)」とは「3年に1度」の意味。現在はどちらの単語も、もとの意味を離れて国際的な美術展や芸術祭を指す一般名詞として広く浸透している。なお、毎年開催される芸術祭が少ないのは、1年というスパンでは準備が間に合わないため。アーティストの選定やアーティストの新作構想・制作期間のほか、多大な業務が発生する芸術祭は、2年ごと、3年ごとであってもスケジュールはタイトだという。

そして、ビエンナーレが世界で最初に始まったのが、海洋都市・ヴェネチアだ。イタリア国王ウンベルト1世とマルゲリータ王妃の銀婚式を記念して1895年に開催されたこの催しは、かつてはヨーロッパ列強国の一つにも考えられていたものの、イタリア統一を機に影響力が低下していたヴェネチアを盛り上げる意味合いも込められていた。

万国博覧会のように各国ごとにパビリオンをつくり、作品を展示するスタイルの芸術祭は大好評で、現在にまで続く催しとなった。第二次世界大戦中は中断を余儀なくされていたこの芸術祭は、戦後になり世界の現代美術の動向を紹介する場として発展していく。なお、ヴェネチア・ビエンナーレといえば、通常は隔年で5月から11月に開催される国際美術展を指す。しかし美術展が開催されない年には、建築をテーマにした「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」が同じく5月から11月に行われている。さらに音楽祭や映画祭、演劇祭も開催される。だから、特に初夏から秋にかけてのヴェネチアを訪れれば、何かしらの展示が行われているわけだ。ヴェネチアにいつも旅行者が訪れているのは、観光地であるという理由以外にも、新しい芸術に出合えるという期待を多くの人が持っているからかもしれない。

現在、ヴェネチア・ビエンナーレのメイン会場は性格の異なる二つのエリアに分かれている。一つはヴェネチア最大級の庭園「ジャルディーニ」、もう一つは旧国立造船所跡地を利用した「アルセナーレ」だ。ジャルディーニには、日本を含む約30カ国が常設パビリオンを持っていて、毎回の展示会場となる。ヨーゼフ・ホフマン設計のオーストリア館(1934年竣工)や、スヴェレ・フェーン設計の北欧館(1964年竣工)など、どのパビリオンも著名な建築家が手がけており、単なる展示会場ではなく建築ミュージアムの側面も持っている。

旧造船所を利用した巨大な展示施設アルセナーレは、総合ディレクターが企画する国際展の会場。 photo: ANDREA AVEZZÙ, COURTESY LA BIENNALE DI VENEZIA

アルセナーレは、ヴェネチアが共和国だった時代に築かれた造船所跡地で、レンガの壁と木造トラスによる奥行きのある長い空間が特徴。巨大なインスタレーションや映像作品が展示されることが多く、ビエンナーレの総合ディレクターがキュレーションする「国際展」の会場として活用されることが多い。

世界へ広がった国際芸術祭

ここでヴェネチア以外の国際芸術祭の広がりについても見ていこう。第二次世界大戦後、ビエンナーレやトリエンナーレ形式の芸術祭が世界各地で行われ始める。そのなかでも代表的な存在が、ブラジルのサンパウロ市で行われているサンパウロ・ビエンナーレと、ドイツのカッセル市などが舞台となっているドクメンタだ。サンパウロ・ビエンナーレは1951年にスタート。それまでヨーロッパ中心だった現代美術の地図を拡張する役割を果たしている。5年に1度開催されるドクメンタは、「退廃芸術」としてナチスに弾圧された前衛芸術の復権を目的として1955年から開始した、祝祭的なヴェネチア・ビエンナーレと対極的な存在にある芸術祭だ。

1990年代になると世界各地で芸術祭は爆発的に増加した。特にアジアでの開催は顕著で、1995年に韓国は光州、1996年に中国・上海、1998年に台北でそれぞれビエンナーレがスタート。そのほかのアジア各国で国際芸術祭が行われている。

そして、日本もまた国際芸術祭が多く開催されている。2000年にスタートした越後妻有アートトリエンナーレを皮切りに、横浜トリエンナーレ(2001)、瀬戸内国際芸術祭(2010)、国際芸術祭「あいち」(旧あいちトリエンナーレ)(2010)のほか枚挙にいとまがない。なお、日本の国際芸術祭は開催地域を盛り上げる「地域おこし」的な意味合いで行われていることも多く、他国の国際芸術祭よりも、開催地域にまつわる作品が多いことも特徴として挙げられる。国際芸術祭は今後も日本を含め世界各地で行われるであろう。けれども、100年を超える歴史を持ち、世界中から注目されるヴェネチア・ビエンナーレは、ほかの芸術祭とはやはり一線を画す存在だ。

130年以上続くヴェネチア・ビエンナーレがこれほどまでに注目されているのは、独自の運営体制によるところが大きい。国際的に活躍するキュレーターや評論家が総合ディレクターを務め、展覧会のテーマを設定する。一方、参加国はそれぞれ独自にキュレーターとアーティストを選出し、各国パビリオンで展示を行う。さらに、参加作家やパビリオンには優れた展示に対して賞が与えられ、受賞をきっかけにアーティストが世界的な注目を集めることも多い。こうした仕組みから、同ビエンナーレはしばしば「美術のオリンピック」とも呼ばれる。

しかし“オリンピック”ゆえに、国家の威信をかけて賞をとろうとする国が出現したこともある。1964年、アメリカは軍用機で作品を運搬し、ジャルディーニの外にある旧アメリカ領事館ビルを借りきって作品を大々的に展示するなど、国家的なバックアップを行った結果、ロバート・ラウシェンバーグが国際大賞を受賞し、物議を醸すこととなった。この後、賞制度は1970年に一旦廃止されたものの、1986年に復活、時代の変化に制度を合わせつつ現在にまで続いている。

第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展(2026)の総合ディレクター、コヨ・クオ。 photo: Mirjam Kluka

2026年の同ビエンナーレの総合ディレクターに就任したのはコヨ・クオ(1967〜2025)だ。クオはカメルーン出身のスイス人のキュレーターで、同ビエンナーレ初の黒人女性ディレクターとして就任し、期待されていた人物だったが、同ビエンナーレの開催を待たずに病気のため昨年急逝した。彼女が今回のビエンナーレに設定したテーマは「In Minor Keys(短調で)」。Minor Keys(短調)は、明るく肯定的なMajor Keys(長調)に対し、繊細で、内省的な印象を与えることが多い。このことから、このテーマには芸術は強者のための行進曲ではなく、より静かな響きに耳を澄ませるべき、という彼女の願いが込められているという。参加アーティストたちはこのテーマに対して、どのように作品で応えるのか期待が高まる。

今回、総合ディレクターのクオは急逝してしまったが、彼女の意志を引き継いだスタッフたちによって「In Minor Keys」をテーマとした国際展も開催される。111組の参加アーティストのうち、日本および日系の参加アーティストとしてブブ・ド・ラ・マドレーヌ、嶋田美子、アレクサ・クミコ・ハタナカ、キャリー・ヤマオカが出展する。

日本館の歩み

日本はヴェネチア・ビエンナーレに実は初期から参加している。最初に参加したのは明治中頃、1897年の第2回展だ。参加とはいうものの、現在のように国家単位ではなく、当時のビエンナーレ総裁からの出品要請を受け、日本美術協会が主体となって日本画や工芸品を出品していた。また、1920年代から40年代にかけても、藤田嗣治や国吉康雄の作品が展示されたことがわかっている。しかし、いずれの展示も、日本国としての正式参加ではない。

日本が国家として正式にヴェネチア・ビエンナーレに参加したのは、サンフランシスコ平和条約により日本が国際社会に復帰した1952年の第26回展から。代表(コミッショナー)には洋画家の梅原龍三郎が就任、梅原龍三郎や安井曾太郎の油彩画のほか、横山大観や鏑木清方、福田平八郎などの日本画も展示された。しかし、当時の日本はパビリオンを持っていなかったため、展示作品はイタリア館の一角にまとめられてしまった。また、屏風が壁にかけて展示されるなど、決して作品にとってよい環境とはいえなかったようだ。

このような状況を受け、1956年、ブリヂストンタイヤ(現ブリヂストン)の創業者、石橋正二郎はジャルディーニに日本館を建設、政府へ寄付することとなった。日本館の設計に当たったのは、ル・コルビュジエに学んだ建築家、吉阪隆正だ。吉阪は、バラバラな個(不連続なもの)が、その個を保ったままゆるやかにつながり合っている状態を「不連続統一体」と名づけ、その概念を建築の実践で試みたことで知られる。

ジャルディーニ地区に位置する日本館の外観。吉阪隆正の設計で1956年に完成。建物は柱で持ち上げられたピロティの上に建ち、地面から少し浮いているように見える。このため建物の下は開かれた半屋外空間となっている。 photo: PEPPE MAISTO
日本館の内部。天井と床に開口があり、光や風、雨までも取り込む設計。自然と建築、展示空間がゆるやかにつながり、重厚な大理石の床も特徴だ。 photo: PEPPE MAISTO

本来は床によって遮断されるはずの1階のピロティと2階の展示室に開口部が大きく設けられたことにより、建物全体が不連続につながり合う形になっている。また、ピロティや天窓を介して建物の外側と内側の区分が曖昧になっており、吉阪の思想が強く打ち出されている。いわゆる「クセの強い」設計は、多くの作家たちにとってしばしば扱いにくい造りとされるが、それを克服するアイデアをアーティストが生み出し、作品により強度を加える作用も持っているようだ。

そんな日本館ではこれまで、棟方志功や篠山紀信、舟越桂や草間彌生、内藤礼や塩田千春をはじめ、累計200人以上のアーティストが展示を行ってきた。同ビエンナーレの代表作家の選考方法は国によってスタイルが異なっている。日本館の展示を主催する国際交流基金は、前回の2024年に開催された第60回より選考方法を変更。5組のアーティストを指名し、展示プランの提出を依頼するコンペ制となった。前回はアーティストの毛利悠子が選定され、マンチェスター大学ウィットワース美術館ディレクターのイ・スッキョンがキュレーターとして選ばれている。

そして、今年、第61回の日本館のアーティストは、指名コンペを勝ち抜いた、福島県出身のアメリカ在住の日系アーティスト、荒川ナッシュ医(えい)となった。荒川ナッシュはパフォーマンスアートをさまざまな場所で発表してきた作家で、本ビエンナーレでは自身の経験をもとにしたインスタレーション《草の赤ちゃん、月の赤ちゃん》を発表予定だ。ちょうど70年前に竣工した日本館をどのように使うのか、作品は国際的な文脈のなかでどのように受け止められるのか。さらに他国の参加アーティストはどのような作品をつくり、世界にどのように問いかけていくのか? 世界でもっとも歴史のあるビエンナーレで、どのような新しい歴史が刻まれていくのか、期待していきたい。

From Harper's BAZAAR art no.5

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