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豊臣秀吉は有能人材をスカウトする達人だった⁉ 知られざる戦国武将の“転職”事情/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか①

  • 2026.2.27

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第1回【全7回】

戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』 (河合敦/ポプラ社)
『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』 (河合敦/ポプラ社)

豊臣秀吉の武将スカウト術

■主君から転職の邪魔をされる

どれだけ有能な人材を多く持つかによって、会社の業績が大きく変わるのはいまも昔も同じ。とくに近年は人材不足が深刻で、中小企業にはなかなか人が集まらないと聞く。じつは戦国時代の大名家も同じだった。戦乱期なので武士の就活は超売り手市場。よくいわれる「忠臣は二君に仕えず」といった「武士道」的な考えは江戸時代以降のもので、戦国時代はダメな主君なら、さっさと見限ることもためらわなかった。

たとえば藤堂高虎は何度も主君を変えている。また、伊達政宗の重臣・伊達成実や茂庭綱元などは政宗と仲違いして一度は伊達家を出奔したが、貴重な人材だったので、のちに政宗は二人の帰参を認めている。このように、優秀な社員(家臣)なら社長(主君)と喧嘩して退職願を叩きつけても、堂々と復職(帰参)できたのである。

また、傾奇者として有名な前田慶次郎(慶次)は、前田利家の一族だったが利家本人と反りが合わず、真冬に利家を水風呂に入れてウサを晴らして同家を出奔、その後、上杉景勝に雇われている。

このように才覚さえあれば、世を渡っていける(奉公できる)のが戦国時代の武士であった。

ただし、何か罪を犯したり失態をしでかしたりして主君から追放された家臣は、「奉公構」という刑罰があり、他家へ再就職(奉公)することができなかった。奉公をしようとすると、前の主君から再雇用先の大名家にクレームが入る。ただ、それほど厳密ではなく、他家に雇用される者も少なくなかったが、根に持つタイプの主君から奉公構を出されると悲惨である。代表的なのが後藤又兵衛だ。又兵衛は黒田官兵衛の重臣だったが、官兵衛の死後、主君となった官兵衛の子・長政と対立して黒田家を飛び出し、細川忠興のもとに身を寄せた。ところが長政がこれに文句をつけ、黒田家と細川家があわや一触即発の危機となったが、徳川家康の仲裁により、又兵衛は細川家を去った。しかし、その後も、又兵衛が奉公しようとするたびに長政の邪魔が入り、ついに又兵衛は他家に奉公することができず牢人生活を送り、最期は大坂城に入って大坂夏の陣で討ち死にした。

■有能な武士を引き抜く

戦国武将のなかで、最も多くの勇将をスカウトしたのは、間違いなく豊臣秀吉であろう。庶民出身ゆえ、織田信長や徳川家康のように譜代(代々、臣下として一つの主家に仕える家系)の家臣を持たない秀吉は、一から家臣団をつくらなければならなかった。長浜(滋賀県長浜市)城主になった頃から、秀吉は家族だけでなく親戚、さらに妻・ねねの一族まで、かたっぱしから家臣に取り立てていった。豊臣政権を樹立する頃には、彼らはいずれも自身の領地を持ち、大名へと成り上がっていた。だが、それでも部下が足りない。そこで手っ取り早く、諸大名の家臣団から有能な人材をスカウトしたのである。

有名なのが、軍師の竹中半兵衛を迎えたときの逸話。劉備玄徳が諸葛孔明を迎えるに際し「三顧の礼」を以てした『三国志』の故事にちなみ、たびたび半兵衛のもとを訪ねては、部下になってほしいと懇願し、了承させたという。ただ、これは後世の『太閤記』などに出てくる話なので、信憑性に欠ける。

史実として有名なのは、家康の重臣・石川数正の例だ。天正十三年(一五八五)十一月十三日、岡崎城(愛知県岡崎市)代(留守居)の数正が城から出奔し、秀吉のもとへと走った。石川氏は有力な徳川の譜代大名であり、数正は西三河(現在の愛知県中部)の旗頭、すなわち徳川正規軍の片翼を担う最高司令官だった。しかも、かつて織田・徳川同盟の締結に尽力し、今川家の人質になっていた松平信康(家康の長男)を取り戻し、長篠の戦いで織田軍の支援を取りつけた人物。まさに徳川一の功臣だった。

翌日、家康は岡崎城へ駆けつけたが、すでに数正は妻子や家臣を連れて逃げたあとで、城はもぬけの殻だった。家康の動揺は激しく、不安だったのだろう、最前線の信州小諸(長野県小諸市)を守っていた大久保忠世に、すぐに戻るよう催促している。

重臣の水野忠重も時を同じくして徳川家を去り、秀吉に臣従している。数正と示し合わせての行動だった。

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