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朝ドラ『あんぱん』の“史実に基づく部分”とは? ただのフィクションではない、やなせたかしが“生きた現実”

  • 2025.6.25
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『あんぱん』第12週(C)NHK

朝ドラ『あんぱん』が描く戦時下の厳しい現実は、フィクションの枠を超えて、実在の人物であるやなせたかしの経験と深く結びついている。とりわけ、主人公・嵩(北村匠海)の弟・千尋(中沢元紀)の特攻死、そして嵩自身が配属される「宣撫班」での紙芝居制作という描写は、やなせ本人が記した手記や評伝と驚くほど重なる。先週の『あんぱん』第12週「逆転しない正義」は、戦争の非情とその中でなお灯りをともす人間の優しさ、そして正義のかたちについて、静かに深く問いかけてくる。

弟の死と「逆転しない正義」

やなせたかしの弟・千尋は戦死している。本編では未だ、その詳細については描かれていないものの、多くの視聴者が予想する悲しい展開に繋がっていくことは確かだろう。賢く、前途有望な青年であった千尋の死は、戦争が理不尽に未来を奪う現実そのものを体現するものになる。

これは、やなせたかしが著書『新装版 わたしが正義について語るなら』(ポプラ新書)で語った自身の弟の話と重なる。やなせの弟もまた、京都大学在学中に海軍予備学生となり、駆逐艦に乗務。台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で敵潜水艦の攻撃を受け、艦と運命をともにしたと記されている。一説には特攻隊として人間魚雷で敵艦に突入したという話も残っている。

彼の死に直面したやなせが胸に刻んだのは、戦争によって一方的に命を奪われる側の“逆転できない”悲しみだった。だからこそ、彼は「逆転しない正義は献身と愛です」(同書P21)と語ったのだ。

しかし一説には、戦死した兵がどんな最期を迎えたかについて、軍の機密保持の観点から親族にさえもその詳細は明かされないことが一般的とも言われている。

宣撫班での紙芝居制作と「言葉」の武器

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『あんぱん』第12週(C)NHK

ドラマのなかで、嵩は「宣撫班」へと配属され、武器ではなく“言葉”で現地の住民に訴える役割を担う。紙芝居をつくり、子どもたちに見せる嵩の姿は、戦時中のやなせ本人と重なる。

『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』(青山誠/角川文庫)には、やなせが所属した暗号班が宣撫活動を担当し、その一環として彼が描いた紙芝居を携え農村を巡回した様子が記されている(P92)。子どもたちの笑顔が彼にとっての支えだったことは想像に難くない。

この宣撫班での経験は、やなせにとって“言葉の力”と“表現の責任”を痛烈に意識させるものだったに違いない。後年、やなせは「アンパンマン」を生み出すが、あのヒーローが人を倒すのではなく“助ける”ことで正義を体現するのは、こうした体験が根底にあるからだろう。

また、ドラマ本編では嵩が八木上等兵(妻夫木聡)との会話のなかで、井伏鱒二の詩に触れるシーンもある。これは実際に、やなせが戦時中に古本屋で『夜ふけと梅の花』に出会い、井伏文学の文体を真似して創作に向かうようになったこととリンクしている(『新装版〜』P63)。

戦争のなかで出会う“文学”の存在。それは、心が飢えた人間にとってひとつの救いであり、生き延びるための糧でもある。井伏のユーモアと抒情、そして戦争への距離感は、やなせ自身の思想形成に大きな影響を与えたと見られる。そして、嵩のなかにもまた「人を笑わせたい」「喜ばせたい」という種が、ここで蒔かれているのかもしれない。

フィクションの中の「記憶」と「継承」

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『あんぱん』第12週(C)NHK

『あんぱん』はフィクションでありながら、史実へのリスペクトと忠実な描写が貫かれている。名前こそ変えているものの、嵩=やなせたかし、のぶ=小松暢というモデルの存在を知れば、彼らが背負った現実の重さがより鮮明に立ち上がってくる。

戦争は、ただの背景ではない。それは、生身の人間を飲み込み、人格を変え、未来をねじ曲げるものだ。弟を失い、紙芝居で笑顔をつくりながらも心のなかに空虚を抱えたやなせ。その姿が嵩という青年を通じて描かれることで、視聴者は正義とは何か、助けるとはどういうことかをあらためて問われる。

“逆転しない正義”とは、勝者やヒーローの論理ではない。やなせたかしが『アンパンマン』に託した「献身と愛」の根源には、千尋という弟の死、そして戦場での体験、笑顔の紙芝居があった。

それは決してきれいごとではない。けれども、その泥のなかから生まれたからこそ、アンパンマンの顔には“優しさ”と“強さ”の両方が刻まれている。『あんぱん』が描こうとしているのは、戦争のただなかで人が人であろうとした「記憶」であり、それをいまにつなげる「継承」なのだ。


連続テレビ小説『あんぱん』毎週月曜〜土曜あさ8時放送
NHKプラスで見逃し配信中

ライター:北村有(Kitamura Yuu)
主にドラマや映画のレビュー、役者や監督インタビュー、書評コラムなどを担当するライター。可処分時間はドラマや映画鑑賞、読書に割いている。Twitter:@yuu_uu_