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昇進祝いを楽しみにしていた私に、父が渡したのは角の擦り切れた名刺入れでした

  • 2026.9.1
ハウコレ

持ち帰った名刺入れの内側には、名刺ではない紙が1枚残っていました。電話の向こうで父が返したのは、短い一言だけでした。昇進の報告に帰った日、父が食卓に置いたのは、包みも箱もない、角の擦り切れた黒い名刺入れでした。

母から聞いていた話

主任への昇進が決まり、私は久しぶりに実家へ帰りました。帰る前の電話で母が「お父さん、デパートに行ってたわよ」と教えてくれていたので、正直なところ、少し期待していたのです。父は口数の少ない人で、私の進学にも就職にも「そうか」としか言わなかった人でした。その父が売り場に立っている姿を想像すると、夕食の席に着いてからも、つい紙袋を探してしまいました。

使い込まれた革

食器を下げ終えた頃、父が席を立ち、戻ってきて名刺入れをテーブルに置きました。「使うか、これ」。差し出されたのは、見覚えのある黒い革でした。父が長年スーツの内側に入れていたものです。角は白く擦り切れ、金具には細かい傷が並んでいました。「……ありがとう。使う」。そう答えながら、頭の中では別の言葉が回っていました。デパートまで行って、どうして新品ではなく自分のお古なのか。帰りの電車で、膝の上の名刺入れを何度も裏返しました。

内側に残っていた紙

持ち帰って自分の名刺を移そうと内側のポケットに指を入れると、奥に1枚だけ紙が残っていました。名刺かと思って引き出すと、クレヨンで描かれた似顔絵でした。大きな眼鏡の、たぶん父の顔。名刺と同じ大きさに切ってあり、4つの角がどれも丸くなっていました。描いた記憶はありませんが、左下のひらがなの署名は、間違いなく子どもの頃の私の字でした。絵を机に置いたまま、私は父に電話をかけました。「名刺入れの中に、紙が入ったままだったよ」。父の返事は短いものでした。「ああ。返さなくていい」。それきり、母に代わってしまいました。

そして...

新しい部署での初めての名刺交換の日、私はあの名刺入れを持って出ました。自分の名刺の一番奥に、あの紙はそのまま入っています。父がどんな気持ちで革を磨いていたのか、本人の口から聞ける日は来ない気がします。それでも、名刺を差し出す手が定まらなくなるたび、角の丸くなった紙のことを思い出すのです。

(20代女性・営業職)

本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。

(ハウコレ編集部)

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