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タミヤ社長に「僕より詳しい」と言わしめた! “隠していた趣味”を極めたら公式顧問になったアナウンサーの半生『私とプラモデルの半世紀』【書評】

  • 2026.8.12
私とプラモデルの半世紀 大事なことはタミヤが教えてくれた 松井康真/中央公論新社
私とプラモデルの半世紀 大事なことはタミヤが教えてくれた 松井康真/中央公論新社

アナウンサーでありながら、プラモデルメーカーのタミヤの「模型史研究顧問」という肩書きを持つ人の本と聞き、『私とプラモデルの半世紀 大事なことはタミヤが教えてくれた』(松井康真/中央公論新社)を読みはじめた。そして顔写真を調べてみて、一瞬で記憶が蘇った。1980年代生まれの自分が、子どもの頃からテレビでよく見てきたあの方だ。

「アナウンサーらしいアナウンサー」だと思っていたこの人に、こんな一面があるとは知らなかった。しかも著者とプラモデルの関係は、「趣味」という言葉ではとても収まらないものだった。

大学ノートに自作の一覧を作っていた少年が、コレクターになるまで

1963年生まれの著者は、同年代の子どもたちと同じように、ごく自然にプラモデルに夢中になっていく。ただし、その夢中になり方の度合いが、人とは少し違っていた。

当時のタミヤの箱の側面には、同じシリーズの他のキットの箱絵が描かれていた。それを買えばまた別の箱絵が載っていて、無限につながっていく。「シリーズの全貌を摑んでやるぞ!」と火がつき、著者は小学生のうちから大学ノートに自作の一覧を書き出しはじめる。

やがて従兄にもらったタミヤ総合カタログの巻末で「★印の製品は本年度で生産中止の予定です」という一行に衝撃を受け、「じゃあ、あれを買って、作らないで取っておこう」と決める。小学生にしてコレクターへ舵を切る、その早熟さに感心した。

アナウンサーへの道も、同じ小学校時代から伸びていた。当時としては珍しく各教室にテレビがある新校舎で、給食時間の校内放送は上級生が画面に登場する生放送。学校の花形で、映れるのは高学年のクラスにひとりだけだった。著者は6年生で放送委員会に入り、壮絶なじゃんけん大会を勝ち抜いてアナウンサー役を手にする。その記憶が大学時代に蘇り、アナウンサーを志したのだ。

ところが模型のほうは、長く日陰にあった。大学生の頃、プラモデルという趣味は当時出はじめた「オタク」という語のイメージにぴたりとはまり、周囲には言えなかった。集めた絶版キットは家族にも言えず、大きな段ボール箱に入れて隠していたのだという。

「自分の分身が映っているのと同じです」

だがテレビ朝日に入社すると、その趣味は「仕事」にも染み出しはじめる。番組でF-14戦闘機の騒音問題を扱う際、「模型を作ってスタジオで見せたら分かりやすいのでは」という提案が通って以来、模型が必要になるたび自分で作ってくるようになった。キット代は自腹。組んで塗装し、睡眠時間を削り、ときには徹夜して翌日の放送に間に合わせる。頼まれてもいないのに、である。

なぜ、そこまでするのか。

「たとえ自分が映らなくても、自分の作った模型がテレビに映っているなら、それは自分の分身が映っているのと同じです」

という著者の言葉に触れて、その凄みに驚かされた。

そしてその執念は、やがて報道の精度そのものになる。

著者は北朝鮮の万景峰(マンギョンボン)号が世の中を騒がせたとき、図面が公開されていない船の模型を約100時間かけて自作する。船が新潟へ来た日、小型漁船で沖に出て双眼鏡を構えた著者は、遠くの船影を即座に選り分ける。「クレーンと煙突の形が違います!」「救命艇の数が違います!」。結果、他のどの局よりも早く万景峰号を捉えたという。

趣味でしか身につかない解像度が、報道の精度を上げているのだ。

東日本大震災のあと、福島第一原発一号機の建屋の模型を完全自作したのも、この延長にある。国民全員が理解したがっていたものを、松井さんは自らの手で作ってみせたのだ。

隠していた趣味に、恩返しをするということ

松井さんには、既存のもので用が足りないと結局は自分で作ってしまう性分がある。

インターネットの黎明期、プラモデル関係に面白いサイトがないと気づくと、ホームページ・ビルダーの試用版でウェブサイト「田宮模型歴史研究室」を立ち上げた。公式ガイドブック『田宮模型全仕事』には、タミヤから「あの人が詳しい」と名指しされて関わったが、外部ライターの原稿がボツになったため、400本もの解説を広報担当と2人で一から書き直している。その情熱がすさまじい。

やがて、静岡のタミヤ本社にある「田宮歴史館」には、そこにない絶版キットを自分のコレクションから寄贈するようになった。家族にも隠していた段ボール箱の中身が、メーカー自身の展示物になったのだ。そして田宮俊作社長(当時)に「ホントに松井さんは僕より詳しいよ」と言わしめるまでになった。

石坂浩二さんに誘われて結成した模型サークル「ろうがんず」の章も胸を打つ。趣味を訊かれて油絵やテニスと答えれば「いい趣味をお持ちですね」と返ってくるのに、プラモデルと答えると目線が怪しくなる。けれどこれは、大人になっても世界を広げてくれた立派な文化ではないか——。大学生の頃の息苦しさを反面教師に、恩を返していく活動を始めたのだ。その後、60歳で定年退職して再雇用を断り、フリーアナウンサーとして活動しながら、タミヤの模型史研究顧問として田宮歴史館のリニューアルまで手がけている。

「好きを仕事にする」という言い方は、YouTuberが登場してから広まった印象がある。だが松井さんは、その言葉が生まれるより前からそれを地で生きていた。しかも好きなことを、二つも仕事にしてしまった。

本気で「好き」を突き詰めると、人とつながる。著者とタミヤの半世紀の要所には、いつも人との交流があった。楽しさはひとりで抱えていた頃より大きくなり、そしていつしか、趣味だったものが社会とつながる仕事のようなものになっていく。この本は、「好き」を突き詰めることが、その人の人生も、この社会そのものも豊かにしてくれるのだと教えてくれる。

文=古澤誠一郎

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