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村上春樹の『1Q84』驚くほどピュアな愛の物語? たった一度手を握った記憶を、20年間抱き続けた男女は月がふたつある異世界で出会えるのか【書評】

  • 2026.8.6
1Q84 村上春樹/新潮社
1Q84 村上春樹/新潮社

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たった一度、手を握っただけ。それだけの記憶が、生涯忘れられないものになることがある。

村上春樹の大長編『1Q84』全6巻(村上春樹/新潮社)。この奇妙な物語を読み終えて、いちばん胸に残ったのは、そのことだった。二つの月、謎めいた宗教団体、リトル・ピープル、空気さなぎ、そして、物語と現実の境界が崩れていく世界。この物語には、説明しようとすると途方に暮れるような謎がいくつも出てくる。それらが何を意味するのか、最後まで明確な答えが示されない謎も多い。だから、「『1Q84』は難解だ」とよく言われるのもわかる。けれど、読まないままではもったいない。だって、きっと難しく考えすぎなくてもいいのだ。物語は、すべてを解き明かすためだけのものではない。じっくりと感じ取ってほしいのは、これが愛の物語だということ。そして、その愛の形が思いがけないほどピュアだということだ。

二つの月が浮かぶ世界「1Q84年」

10歳のとき、同じ小学校で出会い、やがて離れ離れになった青豆と天吾。1984年、青豆は首都高速の非常階段を下りたあと、自分が夜空に二つの月が浮かぶ、何かがおかしい世界に入り込んでいることに気づく。一方、天吾は少女・ふかえりの小説『空気さなぎ』のリライトを引き受けたことで、宗教団体「さきがけ」やリトル・ピープルの存在へと近づいていく。別々の場所で奇妙な出来事に巻き込まれる二人の物語は、少しずつ近づいていき……。

村上春樹なのに、ピュア?

村上春樹作品といえば、性描写を思い浮かべる読者も少なくないだろう。たとえば『ノルウェイの森』では、喪失の記憶を抱えながら、届かない相手と、いま目の前にいる相手とのあいだで心を揺らす主人公の姿が描かれていた。届かない相手、届かない相手、いま目の前にいる相手。そのあいだで心が揺れ動くところに、村上作品らしい切なさがある。

そう思っている人こそ、『1Q84』には驚かされるのではないだろうか。もちろんこの作品にも性描写はある。作品全体にも、性、暴力、支配、宗教的な歪みが濃く描かれている。だから、性的な要素を排した清らかな恋愛小説ではまったくない。けれど、青豆と天吾が互いに抱き続ける思いは、驚くほど強固。その原点にあるのは、子どもの頃に一度だけ手を握った、ただそれだけの記憶だ。それは、あまりにも頼りない。だが、孤独だった二人にとって、その瞬間ほど、光が満ちた時間はなかったのだろう。もう一度、あの人に会いたい。この世界のどこかにいるはずの、たった一人にたどり着きたい。この物語を読んでいると、そんな声が聞こえてくるかのよう。自分をわかってくれる人が、どこかにいる。その感覚が、長い年月を越えて二人を生かし続ける。そのさまに、心を震わされずにはいられないのだ。

世界に呑まれないために必要なもの

青豆が「1Q84年」と名づけた、疑問符を抱えた、何かがおかしい世界。それはとにかく不穏で、奇妙で仕方がない。この世界では、日常の輪郭が少しずつズレていく。閉鎖的な宗教団体の論理、世間の注目を一気に集める物語、そしてリトル・ピープルという説明のつかない存在。個人を超えた大きな力が、知らないうちに世界の均衡を変えていく。

怖いのは、世界の異常が、派手な崩壊として始まるのではないことだ。警察官の制服や過去の事件、夜空に浮かぶ月。日常のごく小さな違和感が積み重なり、いつの間にか、これまでの常識が通用しない世界へと変わっている。いつの間にか世界が歪んでしまっているのなら……。1Q84年とは、遠い異世界のようでいて、私たちの現実とも地続きに感じられる。

では、そんな世界で自分を見失わずにいるには、何が必要なのか。

きっと、それは愛なのだと思う。甘くきれいな恋愛感情というだけではない。たった一人の存在を信じ続けること。自分は完全に一人ではなかったと証明してくれる記憶を、最後まで手放さないこと。世界がどれだけ歪んでも、「あの人がいる」と思えること。その記憶と愛が、青豆と天吾を生きる側につなぎとめている。

やっぱり、これは愛の物語だ

読み終えたあと、思わず夜空に月を探す。そこに浮かぶ月がひとつだけであることに小さく安堵しながらも、胸の奥では別の問いが静かに残り続けている。もしも世界が少しずつ歪み、自分の足元さえ信じられなくなったとき、私を生きる側につなぎとめてくれる人は、誰なのだろうか。

青豆にとっての天吾。天吾にとっての青豆。世界に呑み込まれそうなとき、たった一人を思うことが、人を生かすこともある。そんな二人の姿を最後まで見届けたら、きっとあなたも、自分にとっての“誰か”を思い出さずにはいられないはず。村上春樹のそんな愛の物語を、あなたにも是非。

文=アサトーミナミ

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