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「クビ寸前だった」今岡真訪を救った星野仙一の一言…阪神V戦士が明かす“闘将”の素顔

  • 2026.6.27

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第10回は、星野が阪神監督に就任した後にその才能を開花させ、主軸を担った今岡誠(現・真訪)に話を聞いた。【今岡真訪インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

「防波堤」として、今岡を守り続けた星野仙一

「大学3年生の頃だったと思います。僕や井口(資仁)、高橋(由伸)といったドラフト候補が集まって、全日本の沖縄合宿をしていたところ、当時は解説者をされていた星野監督が来られた。そのメンバーの一人だった筒井壮(現・阪神タイガース外野守備兼走塁チーフコーチ)は星野監督の甥っ子で、“おじちゃんと飯を食べることになった”ということで、僕らも一緒に食事をさせてもらうことになったんです」

当時の大学生にとって、「星野仙一」という名前が持つ威圧感は想像を絶するものだった。甥であるはずの筒井ですら、「おじちゃん」を前に、「はい、はい」と直立不動で敬語を使っている。その光景を見た今岡たちは、完全に圧倒されていた。

「もう、緊張しすぎて頭が真っ白でした。完全に記憶が飛ぶくらい緊張しまくって、一言もしゃべれなかったのを覚えています」

それから数年の時が流れた2002(平成14)年。星野が阪神の監督に就任した。あの沖縄での邂逅(かいこう)以来である。このとき、今岡はプロ6年目を迎えていた。「監督と選手」という関係になって以降、今岡は星野の大きさを、身をもって知ることになる。

「それまでの5年間、僕はドラフト1位でありながら期待に応えられず、ミスも多かった。世間からもマスコミからも、なんなら球団内からも、“今岡なんか……”という冷ややかな目で見られていたし、常に反対勢力の目にさらされている状況でした」

しかし、星野は徹底的に今岡の「防波堤」となった。もし、今岡のいないところで、誰かが星野に「今岡は使えないんじゃないですか」などと耳打ちしようものなら、闘将は烈火のごとく激怒し、「お前、オレに文句あるのか!」とムキになって反論したという。

「星野監督は、マスコミに対しても、ファンに対しても、僕らの防波堤になってくれた。こんな人は、今も昔も見たことがありません。僕もその後、指導者を9年やりましたけど、いつも頭にあったのはこの姿でした。選手のミスや不甲斐なさを選手のせいにするのは簡単です。でも本当は、言葉ではなく背中で、“オレの前で選手の文句を言うな”と示せる存在でいなきゃいけない。そんなことを、僕は星野監督の背中から教わったんです」

野村克也監督時代の不遇を経て……

星野の前任は、球史に残る名将・野村克也だった。野村時代の今岡は出番に恵まれず、メディアはしばしば「野村監督に干された今岡が、星野に救われて覚醒した」という文脈で語りたがる。しかし、当事者である今岡の視線は、驚くほど冷静だ。

「みなさん、野村監督がどうのこうのと言いたがりますけど、僕にとってはそんな大した問題じゃないんです。人生、どの世界にだって合う上司、合わない上司はいる。自分にとって逆風が吹く時期というのは誰にでもあるもので、それが僕にとっては、たまたま野村監督の3年間だったというだけのこと。出会う人全員が味方なわけがないんです」

今岡は、野村への恨み言は一切口にしない。しかし同時に、01年シーズンが終わり、野村が退任した頃、今岡がそれまで感じたことのない危機感に襲われていたのも紛れもない事実だった。

「実はあのときの僕は、“もうプロ野球を辞めないといけない。クビになるかもしれない”というところまで追い詰められていました。だから、02年に星野監督が来られたとき、僕は腹を括ったんです。“今年、結果を出してレギュラーを取れなければ、もうユニフォームを脱ごう”と。まさに、己の野球人生のすべてを懸けた1年の始まりでした」

こうした決意と覚悟が、02年2月23日、キャンプ終盤に行われたこの年最初となるオープン戦の打席に凝縮される。まだ2月、選手たちは調整段階にあり、ペナントレースの行方など誰も気にしていない時期の対外試合初戦。しかし今岡にとっては、これが「人生を懸けた一打席」の舞台となった。

「昨年まで会社から評価されていなかったサラリーマンが、上司がガラッと変わった最初の日に“じゃあ、お前営業取ってこい”とチャンスを与えられたようなものです。初っ端の試合の、あの打席に今後の僕の野球人生のすべてが詰まっていました」

マウンドには西武ライオンズの左腕・帆足和幸。今岡の身体は、異様な緊張のせいで硬直していた。打ちにいきたいのに、どうしても手が出ない。ストライク、ストライク、ストライク——。あっという間の三球三振である。いや……。

「実際のところ、本当は三球三振だったんです。完全にストライクだった球を、審判が“ボール”と言ってくれた。九死に一生を得た3球目でした。そして4球目。僕は崩されながらも、必死にボールに食らいつきました……」

打球が転がるのを見届けながら一塁を駆け抜けた。その瞬間、今岡は信じられない行動に出る。オープン戦にもかかわらず、右拳を突き上げ、激しいガッツポーズを披露したのだ。めったに感情を爆発させることのない男による、精一杯の歓喜の表現だった。

「周りのチームメイトは、“オープン戦なのに、あいつ何熱くなってんだ”と感じたかもしれません。でも、全然気にならなかった。もし、あのジャッジがストライクで三球三振だったらと思うと、今でもゾッとします。自分自身が“やっぱりオレはダメだ”と思い知らされて、もう二度とチャンスは来なかったかもしれないから。でも、あの日のヒットで、僕は“これで勝った、今年は絶対にやれる”と確信できたんです」

02年、03年はいちばん頑張った2年間

オープン戦の「たった4球」で生死の境を生き延びた今岡は、そこから堰(せき)を切ったように打ちまくった。自信というよりは、何かに突き動かされるようにバットを振り、そのまま02年シーズンへと突入していく。今岡は、当時の自分をこう振り返る。

「僕の長い野球人生、小学校からプロを引退するまでの中で、2002年と2003年の2年間が、間違いなくいちばん練習をして、いちばん悩み、いちばん考え抜いた時間でした。それまで大した練習もしてこなかった男が、自分でも驚くくらい妥協せずにバットを振り続けた。後にレギュラーになってから結果が出なくて悩んだことなんて、あのとき感じた、生きるか死ぬかの悩みに比べたら、もうどうでもいいレベルの悩みでした」

当時の新聞紙面には、「今岡ほど練習しているヤツはいない。全体練習の前から早出でずっとやっている」という、星野の称賛の言葉が躍った。しかし今岡に言わせれば、それは「必死さの表れ」などという“きれいな言葉”では片づけられないものだった。

「よく若手が、“あいつは練習していない”とか、“オレはあいつよりやっている”なんて、人と比べて愚痴を言いますよね。そんな言葉が出ているうちは、まだ甘いんです。本当にクビを覚悟して、来年ユニフォームを着られないかもしれないという極限に達した人間は、人と比べる必要なんて一切なくなる。自分が打たなきゃ明日には消えるんだから、他人のことなんて自動的に視界から消えるんです」

02年、チームは4位に終わった。全日程終了後、選手、フロント、裏方までを集めた緊急ミーティングが、東京・赤坂プリンスホテルで開かれた。そこで星野は、凍りつくような低い声で全員に言い放った。

「お前ら、来年ここにおれると思うなよ」

複数年契約だろうが、過去に実績があろうが、関係ない。全員白紙。その言葉通り、オフに星野はチームの約半数を血の入れ替えのごとくトレードや解雇で放出する。しかし、このとき星野は、こんな言葉も口にしている。

「誠(今岡)以外は、全員白紙や」

当時を振り返る今岡の感情が、一気に沸点へと達した。

「星野監督の話をするときは、今でもずっとこのテンションになってしまうんです。それくらい、あの言葉は震えました。02年の1年間、僕がどれだけ崖っぷちで妥協せずにやってきたかを、あの人は全部見てくれていた。あんまり自分のことをええように言うのは恥ずかしいですけど、あの2年間くらい、ずーっと現役生活を続けていられたら、僕は2000本も3000本もヒットを打てていたかもしれない。そしてあの瞬間に、“絶対にこの人を胴上げせんかったら、男じゃない。野球を辞めてやる”と心の底から誓ったんです」

翌03年、タイガースは金本知憲、伊良部秀輝、下柳剛といった強力な新戦力を加え、まったく別の勝てる集団へと変貌を遂げることになる。

「02年は自分のことで精いっぱいでしたけど、03年は違った。レギュラーとしての責任を持ちながら、“この監督を胴上げするんだ”という一点だけでチームがまとまっていた。特に金本さんが来られてから、選手同士での勝つための会話が劇的に増えた。あのチームを変えたのは、間違いなく星野監督と金本さんの二人です」

少しずつ、チームが、そして今岡自身が、大きく変わろうとしていた——。

後編に続く)

Profile/今岡真訪(いまおか・まこと)
1974年9月11日生まれ、兵庫県出身。PL学園高校から東洋大学を経て、1996年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。卓越したバッティングセンスで頭角を現す。2002年に星野仙一監督が就任すると、翌03年には「一番・セカンド」として打率.340をマークし首位打者を獲得、18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。05年には打点王に輝くなど、勝負強い打撃で猛虎の一時代を築く。10年に千葉ロッテマリーンズへ移籍し、12年に現役引退。引退後は阪神やロッテで指導者を歴任し、現在は野球評論家として活躍している。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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