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秀吉に人質に出された万丸は、大人になって叔父から「ひどい仕打ち」を受け……。万丸だけではない、家族から非常な扱いを受けた戦国時代の男たち【『豊臣兄弟!』16話】

  • 2026.4.30

*TOP画像/とも(宮澤エマ) 万丸(藤田蒼央) 大河ドラマ『豊臣兄弟!』16話(4月26日放送)より(C)NHK

『豊臣兄弟!』(NHK総合ほか)ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は戦国時代における「人質に出された男性」について見ていきましょう。

◆幼くして人質に出された万丸。どこで成長し、どんな人生をだどった?

幼い頃から、秀吉に都合よく利用されてきた秀次(万丸)

本放送回では、小一郎(仲野太賀)と藤吉郎(池松壮亮)が、宮部継潤(ドンペイ)を織田方の味方につくよう説得する役割を担っていました。継潤は藤吉郎に子を人質として提示することを求めたものの、彼に子がいないことを知ると、「では 近しい身内の子で構わぬ」と譲歩。そこで、白羽の矢が立てられたのは、ともの息子・万丸(藤田蒼央)でした。ともは家族の中で万丸を養子に出すことをもっとも強く反対し、自身と愛息子の境遇に大粒の涙を流していました。

史実においても、豊臣秀吉は自身の甥であり、姉・智(とも)の息子である万丸を浅井家家臣の宮部継潤に渡しました。時期は、秀吉が浅井長政攻略に従事していた頃です。

万丸が人質に出された年齢は定かではないものの、5歳という説もあります。5歳といえば、何事においてもぼんやりと理解できる年齢です。彼は自分が初めて会った人を「父」と呼ばなければならないことに困惑したともいわれています。また、万丸は「宮部治兵衛尉吉継(みやべじひょうえのじょうよしつぐ)」と、継潤のもとで名乗ることを求められました。

1573年、小谷城が攻め落とされ、長政が亡くなると、継潤は秀吉の寄騎(よりき)になりました。これにより、吉継(万丸)は秀吉のもとに帰ることができました。

大人になった吉継(万丸)は豊臣秀次と名を改め、秀吉の嫡男・鶴丸の死後には秀吉に代わって関白の地位を与えられました。

しかし、秀吉に息子の秀頼が誕生すると、秀吉と秀次との間に軋轢が生じます。秀吉は“姉の息子ではなく、我が息子を跡継ぎにしたい”と考え、秀次を煙たがったのです。

秀次は乱行の噂を広められ、謀反の罪により、自害に追い込まれました。乱交も謀反も冤罪だった可能性が高いといわれています。

秀次は小田原北条氏攻めでは先陣として活躍し、尾張一国を中心に100万石の領主としての地位、さらに関白の地位にも就きました。しかし、幼い頃に継潤のもとへ人質として出され、最後には謀反の罪を着せられて自害に追い込まれるなど、叔父・秀吉に翻弄される人生でした。

豊臣家における最初の犠牲者は智と秀次でしたが、母・なか、妹・あさひにも秀吉によって窮地に追い込まれる日が近い将来訪れます。

時代思潮や価値観を考慮すれば、秀吉の性格が特段悪かったわけではないでしょう。それでも、彼の出世の裏では、家族は秀吉に生き方を決められ、つらい経験もしています。

◆戦国時代、男性たちはなぜ人質に出され、どんな人生を歩んだのか

幼少期に人質として過ごした家康、信長に処刑されかけた松寿丸

戦国時代というと、男性は戦場で戦い、女性は人質や妻として政略結婚に利用されるというイメージを抱いている人は多いと思います。けれども、人質に出されたのは女性だけではありませんでした。

例えば、徳川家康は竹千代と名乗っていた6歳の頃に、今川義元のもとに人質に出されています。家康の父・松平広忠は義元に援軍の見返りとして、我が息子を人質に出したのです。

しかし、駿河(するが)の駿府(すんぷ)に向かう途中、戸田康光が家康を渥美半島(あつみはんとう)の田原で略奪しました。そして、康光は織田信秀に家康を引き渡したのです。

信秀の“お前の息子はおれのところにいるぞ。息子が心配なら従え”という脅しに対し、広忠は“子の愛におぼれて不義の振る舞いはせん。愚息の存亡はあなたしだいじゃ”と強気な姿勢だったといいます。戦国時代、広忠の判断は親として一般的だったとはいえ、家康の胸中を察すると切なくなります。

また、天才軍師・黒田官兵衛の息子・長政は松寿丸(しょうじゅまる)と名乗っていた10歳の頃に、人質に出されました。

織田信長が播磨諸侯に人質の提出を命じた際、第一候補者は小寺政職の嫡子・氏職(うじもと)でした。しかし、彼は病弱であったため、松寿丸が人質に選ばれたのです。

松寿丸は信長のもとに当初送られましたが、秀吉とおねのもとに落ち着き、おねからは我が子同然の深い愛情を注がれて育ちました。

松寿丸は豊臣家でそれなりに満たされた日々を送っていたようですが、信長は官兵衛の離反を疑ったとき(*1)、秀吉に松寿丸を処刑するよう命じました。

松寿丸の命を救ったのが、竹中半兵衛。半兵衛は松寿丸を匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をしました。

官兵衛がこの事実を知ったときには、半兵衛はすでにこの世を去っていました。それゆえ、官兵衛は半兵衛にお礼を直接伝えることができなかったのです。

松寿丸は秀吉とおねのもとで平穏な日々を送っていたように、人質は牢屋に閉じ込められたり、尊厳を踏みにじるような扱いを受けたりするわけではありません。しかし、両者の関係がこじれれば、人質は処刑の対象になり得ます。しかも、処刑は“見せしめ”の目的もあるため、“いかに苦しめ、時間をかけて殺すか”が重視されていました。これが戦国時代の人質制度の恐ろしいところです。

本記事では、人質に出された万丸のその後の歩みと、戦国時代に人質に出された男性の人生についてお伝えしました。


脚注

*1 官兵衛は信長に謀反を起こした荒木村重を説得するため、有岡城に赴くが、1年以上にわたって幽閉された。信長はこの期間における官兵衛の動向をつかめず、官兵衛に裏切られたと誤解した。


<参考資料>

昭文社(編集)小和田哲男(監修)『地図でスッと頭に入る豊臣一族の戦国時代’25』昭文社、2025年
河合敦『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』朝日新聞出版、2025年
河合敦『徳川家康と9つの危機』 PHP研究所、2022年

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