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【ばけばけ最終回】『怪談/Kwaidan』はなぜ最後に?他愛もない日常が“スバラシ”なワケ

  • 2026.3.30

【ばけばけ最終回】『怪談/Kwaidan』はなぜ最後に?他愛もない日常が“スバラシ”なワケ

1日の楽しみは、朝ドラから! 数々のドラマコラム執筆を手がけている、エンタメライター田幸和歌子さんに、NHK連続テレビ小説、通称朝ドラの楽しみ方を毎週、語っていただきます。『怪談』でおなじみ小泉八雲と、その妻 小泉節子をモデルとする物語。「ばけばけ」のレビューはついに最終回を迎えました。 ※ネタバレにご注意ください

すぐ隣にいながらも、この世界から去っていったことを

東京・百人町。韓国系を中心とした多国籍ムード漂い、日々観光客でにぎわう新宿区の街の一角に、「小泉八雲公園」はある。

ここは、NHK連続テレビ小説『ばけばけ』のレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)のモデルとなり、現在も世界中の人々に親しまれる『怪談/Kwaidan』を残したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)終焉の地である。公園内にはそれを示すモニュメントやハーンの胸像が立ち、周囲にも数箇所のよすがを残す。

周囲の喧騒とはまた違い、ハーンの故郷であるギリシアの雰囲気も取り入れられた公園は季節ごとに花が彩り、静かな雰囲気をたたえる。それはどこか、作品中のヘブンと、髙石あかりが演じたヒロインのトキが二人だけの時に見せるような空気にも似ているような気もする。

第25週「ウラメシ、ケド、スバラシ。」の放送をもって、『ばけばけ』は、その放送をすべて終了した。怪談という物語の根底に流れる「ウラメシ=恨めしい」というネガティブな言葉と、ヘブンが日本の豊かな風景や文化などに触れるたび口にした「スバラシ=素晴らしい」というポジティブな言葉が、「ケド」という接続助詞で結ばれる。

これは、来日当初日本の暮らしになじめず「ジゴク、ジゴク」と気に入らないことがあるたび口にした「ウラメシ」の世界も、その本質の「スバラシ」、ひいては妻としたトキや松野家の面々、そして長くリテラシーアシスタントをつとめた錦織(吉沢亮)らも含めた、日本のひとびとへの愛も込められている感情ではないだろうか。韻を踏むかのようなこの2つの感情こそが、この作品の大きな魅力なのだろう。

実際のハーンと同じく、ヘブンは新宿の自宅で、トキと穏やかに語らい笑いながら、トキの隣で眠るようにその生涯を閉じた。宍道湖のほとりで寄り添い合う場面など、トキとヘブンの2人が心を通い合わせる場面の美しさはとても印象的だ。

「シツレイナガラ、オサキ、ヤスマセテイタダキマス」

そう言って覚めることのない眠りにつくヘブン。すぐ隣にいながらも、この世界から去っていったことを感じて頬をつたう、トキの涙、この場面に至る前の、朝餉をともにしながら思い出話で笑い合う姿もまた、「スバラシ」である。

驚いたのは、この2人にとってのクライマックスのような別れが描かれたのが25週の2日目、火曜の放送だったことだ。ヘブンの遺影の隣に勘右衛門の遺影があり、あの世でも「ペリー、覚悟!」「ラストサムライ!」とやりあっているのでないかと、悲しいながらもクスッとさせてくれる、このドラマらしい小さな笑いは相変わらず盛り込まれているが、あと3話、ヘブン不在でどうするのか。

過去にはたとえば『カーネーション』のように、ヒロインが残り数話を残してこの世を去る作品だってもちろん何作も存在する。とはいえ、『カーネーション』はヒロインである母を超えて世界で活躍する娘たちへの〝継承〟の物語でもあった。しかし、『ばけばけ』は、ヘブン(ハーン)亡きあとの後日譚というものにさほど強いドラマ性はないのではないだろうか。

「他愛のない毎日がスバラシだった」

だが、この作品は、本連載でも何度も触れてきたとおり、「何も起こらない」ことを描くことを掲げた作品である。ヘブンがこの世を去るという、大きな出来事が起こってはいるが、それは自然の摂理であり、視点を変えると、ある意味そこには何も起こっていないのかもしれない。自然のままに還っていった、それだけのことだ。

ヘブンの死後、彼が最後に残した作品がなぜ『怪談/Kwaidan』だったのかと、イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)がトキを責め立てる。イライザからすれば、『怪談』は幼稚な民話集にすぎず、ヘブンの生涯を台無しなものとしたと言う。実際に『怪談』が世界的に評価されるのはもう少し先のこととなる。

イライザの言葉に、トキは激しく傷つく。しかし、だからこそ、イライザは自らも愛したヘブンを、トキにしか書けない、トキにしか見せていなかったレフカダ・ヘブンを回顧録として残してほしいと願う。とはいえイライザに責め立てられたことでトキには自責の念が重くのしかかる。何を書いたら、何を残したらいいのか……迷い路に入ってしまうトキに、母のフミが言う。

「他愛もない、ほんに他愛もない、スバラシな毎日だっただない?」

他愛もない、だけど「スバラシ」。まさにこのドラマが日々重ねてきた「何も起こらない」がそこに込められている。ざっくりいえば、『ばけばけ』は偉人をモデルとしたドラマである。現代も愛され続ける作品『怪談』は、本当に終盤まで登場しなかった。早く怪談を執筆する世界を見たい、いつになったら怪談を書くのか、そんなやきもきする思いを抱えた視聴者も多かっただろう。だが『怪談』は、このドラマが目指し、描いていこうとした方向性にとって、何かを「起こしてしまう」存在だっただろう。トキとヘブン、そして多くの周りの人たちと織り成していく「日常」。『怪談』を大きな柱にしてしまうと、それは描けないものになってしまっただろう。そんなふうに感じられた。

他愛のない毎日がスバラシだったと肯定してくれたフミの言葉に、救われた思いで涙するトキのもとに、1匹の蚊が現れる。「生まれ変わったら蚊になりたい」というヘブンの言葉通りなのか、その蚊の登場によって、ようやくこれまでのような明るい光がトキの目に戻ってきた。そして、ヘブンの思い出話を語り始めた。

誰もが知る「何かを起こした(残した)」人物をモチーフにしながら、「何も起こらない物語」を半年に渡り紡ぎ続けてきた。ヘブンの死後の3話は、ヘブンの死を経ても、やはり変わらず日常は続く。その後も「ウラメシ」なことは訪れるかもしれないが、それぞれの中にヘブンの存在が残る限り、他愛もない日常は「スバラシ」であり続ける。全話の視聴を終えたあとに残った印象は、当初期待した『怪談』のおどろおどろしく「ウラメシ」な世界でなく、他愛もない夫婦と取り巻くひとびとの「スバラシ」な時間となっていた。

何も起こらないことを描くドラマが、そんなことを残してくれた。

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