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「風、薫る」直美のモチーフ鈴木雅は看護学校で最も英語ができたが…米国留学をドタキャン、京都で隠居したワケ

  • 2026.5.13

りん(見上愛)と直美(上坂樹里)という看護師になった2人の女性を描く「風、薫る」(NHK)。原案本の作者・田中ひかるさんは「直美のモチーフ、鈴木雅さんは大関和(りんのモモチーフ)さんに劣らず優秀で、2人とも武士の娘という共通点もあった」という――。

原案者は鈴木雅に何を託したか

「風、薫る」(NHK)の原案となった著書『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)では、大関和おおぜきちかのバディ(相棒)として、鈴木雅すずきまさを描きました。そうすることで、看護についての考え方や、戦争についての考え方が一面的にならないようにしています。

雅はご親族が残してくださった史料のおかげで、経歴についてははっきりとしているのですが、自分のことをほとんど書き残していないのです。看護に関する論考や記事は残しているのに、自分自身の内面については語っていません。

大関和と鈴木雅が出会ったのは、1887年(明治20年)、桜井女学校附属看護婦養成所の入学時のことです。一期生は和を含めて8人(のちに修了したのは6人)。その中の1人が雅でした。

ドラマと違って雅も士族出身

「風、薫る」では鈴木雅をモチーフとした大家直美は教会に捨てられ、転々としてきたみなしごというオリジナル設定ですが、実際の雅は和と同じく士族の出身で、和とは英語などの学問の素養があるという点が共通しています。他の学生たちはこの2人よりかなり年若く、しかも2人は“子を2人ずつ抱えるシングルマザー”という境遇まで重なっていました。

鈴木雅の写真
鈴木雅の写真

和は離婚によって、雅は1883年(明治16年)に夫・鈴木良光(陸軍歩兵少佐)が病没したことによってシングルマザーになったという違いはありますが、子どもを抱えて生きていかなければならないという状況は同じです。これだけ共通項がある2人が同じ学校に入ってきたのですから、話が合わないはずがない、と思いました。

ただ、物語の中では最初から二人の気が合ったようには書いていません。人間関係はそんなに単純ではないですよね。会話については史料に残っていませんから、2人の会話はほとんどフィクションなのですが、2人の性格と時代背景から自然と生まれてきました。2人が親しくなっていく場面として、「ランプの火屋ほや磨き」のシーンを書いたのですが、実際にこの時代の看護学校では火屋磨きが毎日の重労働だったという記録があります。ガラスの部分などは細い腕の方が作業しやすいようですよ。

寄宿生活では食事の準備も洗濯も、勉強以外にやらなければならないことが山ほどあって大変だったというのは資料に残っています。でも、食事中にこんなにおしゃべりをしたとかいうことは全然資料にはなく、創作で入れた点です(笑)。最初は子どものことを尋ねたらムッとされてしまうような関係が、生活をともにするなかで距離を縮めていったというふうに描きたかったんです。

ナイチンゲールの著書を翻訳

桜井看護学校時代に学生たちが一緒にナイチンゲールの著書『看護覚え書』を翻訳したというシーンを描きましたが、これは史料には残っていないことです。ナイチンゲールの言葉が素晴らしいから紹介したくて入れてしまいました。

本では、修了式の写真を撮るシーンも描いています。あの写真には、これから未来へ向かってはばたこうとする彼女たち一人ひとりの思いが込められていると感じるので、ぜひ触れたかったのです。

田中ひかるさん
田中ひかるさん
ドラマのように断髪した?

本では雅の断髪についても触れています。幕末から明治にかけての時代には、世間は女性の断髪を良しとせず、東京府は「女子断髪禁止令」を出しています。男性のザンギリ頭が文明開化の象徴として歓迎された一方で、女性の断髪は「女性らしさ」を損なうものとして嫌われたんですね。だからこそ、その当時、女性が断髪するということに私は大きな意味を感じました。

実は勉学の意志を示すために断髪したという記録が残っているのは、同期の広瀬梅です。梅は岡山の出身なのですが、勉学のために上京することを父親に反対され、断髪することで本気であることを示しました。また、桜井看護学校の校長の矢嶋楫子も、女性から離婚することが難しかった時代に髪を切ることで、覚悟を示しました。そのくらい、女性が髪を切ることには大きな意味があったのです。

英国人教師も認めた雅の英語力

ところで、和と雅の共通点の一つに「英語」があります。和の英語力がどの程度だったのかはわかりませんが、雅の英語力が高かったことは間違いないようです。お孫さんの手記に、「フェリスで学んだ英語力を役立てた」と書いてあります。英国人教師アグネス・ヴェッチによる授業の通訳も、日常生活での通訳も、雅がやっていたという記録があります。アグネスは雅の卒業証書にだけ「看護学を教えるにふさわしい後継者です」という言葉を署名入りで書き添えています。

アメリカ留学をドタキャン?

その英語力は引退後も衰えなかったといいます。雅のお孫さんの手記によれば、一緒に買い物に行くと英語が飛び出してきて、周りがびっくりしていたそうです。ご親族のお話をうかがっていると、雅は私が書いたイメージとピタリと重なる方でした。シャープでクールな感じなのですが、ちょっと面白いことを言うんです(笑)。

雅には留学の話もありました。師のマリア・ツルーに付き添って渡米しようとしたのですが、直前に断念しています。断念の理由は、ネタバレになるのであえて言いませんが、いずれにせよ当時、留学をドタキャンするというのは非常に大変なことで、よほどの理由があったわけです。

帝大病院を辞め、慈善活動を

帝大病院を辞めた後、1891年(明治24年)に東京の本郷に雅が作ったのが「慈善看護婦会」です。日本で最初の個人経営による派出看護婦会で、在宅の病人のところへ看護師を派遣するという、今でいう訪問看護の先駆けです。「慈善」という名前の通り、貧しい人には無償で看護をするという理念を持っていた。

それが後に「東京看護婦会」と改称されていくのですが、後発の派出看護婦会が次々とでき、競合が激しくなる中でたくさんの看護師を雇わなければならなくなり、完全な無償では経営が成り立たなくなっていったからです。ただ、貧しい人に対しては実態として無償で看護を続けていたんじゃないかと私は思っています。1896年には「東京看護婦会講習所」も作って、看護教育にも力を注いでいきます。

桜井看護学校1期生の卒業写真。左から鈴木雅、指導者のアグネス・ヴェッチ、大関和
桜井看護学校1期生の卒業写真。左から鈴木雅、指導者のアグネス・ヴェッチ、大関和(写真=医療法人知命堂病院提供)
軍人の夫が遺した恩給で生活

雅はお金にはそれほど困っていませんでした。陸軍少佐だった夫の恩給があったので、経済的には安定していた。だからこそ「慈善」――無償奉仕――という理念を掲げた看護婦会を作れたところもあるでしょう。私は「お金も大事」「これは職業なんだから」という経済的自立の観点を、雅の言葉に乗せましたが、彼女は困っている人に対しては一貫して無償の姿勢をとっています。

看護婦の労働条件にこだわり…

また、私が驚いたのが、雅が最初に慈善看護婦会を立ち上げた時に定めた労働条件の先見性です。全く前例がないのに、「家政婦のような仕事はさせないでください」「何時間働いたら何時間休憩させる」といった規則を具体的に整えていた。

後に派出看護婦として実際に働いた女性たちの記録を見ると、「私は看護婦として行ったのに雑用ばかりやらされた」「休憩できなくてつらい」といった感じの不満が書かれているんです。雅はそういった問題が表面化するはるか前から、すでに起こりうる問題点を見越して制度を作っていた。もしかしたら外国の例を勉強していて予備知識があったのかもしれないですが、一件目であるにもかかわらず、そこまで制度を整えているのは、本当にすごいことだと思います。

43歳でリタイア、京都へ移住

雅が1901年(明治34年)に会頭職を和に譲り、第一線から退いたのは43歳のことです。長らく「息子・良一の病気のため」というのが定説でしたが、宮田茂子さんの本に、「看護婦規則の翌年だから、それが関係あるのではないか」という指摘があって、読んだ時に「それはありうる」と私も思いました。

1900年(明治33年)に東京府で看護婦規則が制定されたのですが、それを作ったのは和の働きかけによるところが大きかった。もしその制定によって雅が引退したのだとしたら、やっぱりそこは書かなければいけないと思いました。雅も規則は必要だと考えていたと思いますが、これは違うという感覚があったのでしょう。

現実主義者で、ロマンチスト
田中 ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)
田中 ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)

引退後に雅が京都へ移ったのは、弟の家が京都にあったからだと思っていたんです。でも、ご親族の方から「雅は新婚時代を過ごした京都で暮らしたかったのです」とうかがい、亡き夫のことをずっと思っていたのだなと胸が熱くなりました。短い新婚時代を過ごした場所に、還っていったのですね。そこは重版時に修正を入れました。晩年は沼津で過ごし、1940年(昭和15年)に亡くなっています。

本書の中では雅に私自身の考えをかなり乗せています。和は患者に献身的に寄り添い、患者のために後先を考えずに走ってしまうタイプなので、私もふくめ現代の読者には共感しにくい部分もあるでしょう。だから「報酬も大事、これは仕事なんだから」という経済的自立の観点や、戦争についての和の態度について、雅に意見を言ってもらっています。そうすることで、看護婦のみならず働くとはどういうことなのか、使命感とは何なのかについて私自身も考えたかったからです。答えは読者の皆様に出していただければと思います。

取材・構成=田幸和歌子

田中 ひかる(たなか・ひかる)
歴史社会学者・作家
1970年、東京都生まれ。学習院大学法学部卒業。予備校・高校非常勤講師などを経て、専修大学大学院文学研究科修士課程、横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程に学ぶ。博士(学術)。著書に『生理用品の社会史』(角川ソフィア文庫)『月経と犯罪 “生理”はどう語られてきたか』(平凡社)、『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』(中央公論新社)、『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)など。

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