1. トップ
  2. エンタメ
  3. 「風、薫る」のモチーフ大関和は主人公向きではなかった…それでも原案者が「最後は大好きになった」ワケ

「風、薫る」のモチーフ大関和は主人公向きではなかった…それでも原案者が「最後は大好きになった」ワケ

  • 2026.5.12

「風、薫る」(NHK)には原案の評伝小説『明治のナイチンゲール 大関和物語』がある。その著者・田中ひかるさんは「私の本はフィクションだが、執筆に当たって大関和さんの人物像を調べたところ、感情が激しく、よく泣いた人だということが分かった」という――。

桜井看護学校1期生の卒業写真、前列右から2番目が大関和、左から2番目が鈴木雅(「風、薫る」大家直美のモチーフ)
桜井看護学校1期生の卒業写真、前列右から2番目が大関和、左から2番目が鈴木雅(「風、薫る」大家直美のモチーフ)写真=医療法人知命堂病院提供
看護学校の写真に想像が広がった

NHK連続テレビ小説「風、薫る」の原案本『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)を私が書くきっかけとなったのは、コロナ禍でした。看護師さんたちが連日ニュースに出て、過酷な状況で働いている姿を見ながら、以前に女性医師の草分けになった人について書いた(『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』)ときに知った、大関和おおぜきちか(「風、薫る」一ノ瀬りんのモチーフ)のことが気になりました。

もともと大関和の名前は知っていたのですが、詳細は知らず、当時は別の人物について執筆中でしたから、看護の歴史もちょっと調べてみようかという、軽い気持ちだったんです。

すると、大関和を含めた「桜井看護学校」1期生の人たちが写っている1枚の写真(上の写真)が出てきた。中央は指導者のアグネス・ヴェッチで、大関和はそのかたわらに凛とした表情で写っていて、インスピレーションがわく写真でした。その瞬間、この人たちの人生を知りたいと思いました。

不当に蔑視されていた看護婦たち

そして、本を書くにあたって最初に驚かされたのが、明治時代の「看護婦」という職業の扱いです。今でこそ看護師は専門職として広く認知されていますが、当時は「カネのために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業せんぎょう」と見なされていた。家柄の良い女性が看護の道を志すこと自体が「恥」とされていた時代に、家老の娘だった大関和が、あえてその道に踏み込んでいったんです。私自身、いろいろ取材し、書いていく中で、彼女たちがどれほど“異端”だったかを、改めて実感しました。

実は当初は大関和一人の伝記として企画を立てていました。最終的な書名も『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)と和が主人公のままなのですが、書き進めるうちに鈴木雅すずきまさ(「風、薫る」大家直美のモチーフ)がどんどん存在感を増してきて、気づいたら和と雅のバディ物になっていた。「風、薫る」でもその友情が描かれますが、史料的には2人が助け合っていたとか、こんな会話をしていたという記録はまったくないんです。

和と雅は本当に親友だったのか

ただ、2人の経歴を調べていくと、ある特定の時期において、常に同じ場所にいるんですね。看護学校の寄宿時代が2年ほど、その後、帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院、通称・東大病院、以下「帝大病院」)で一緒に働いたのが2年ほど。そして一度離れて、また東京看護婦会で一緒に活動する。計算すると正味10年ていどなのですが、その10年の濃さが半端ではなかった。

私が2人に信頼関係があったに違いないと判断する決め手になったのは、雅が引退する際に、自分が立ち上げた東京看護婦会を和に譲ったという事実です。人生をかけて作り上げた組織を、信頼していない相手には渡せないですよね。2人は仲が良かったとか助け合っていたという史料は一切ないけれど、それぐらい結びつきが深かったと考え、バディとして描くことにしました。

田中ひかるさん
田中ひかるさん
2人続いて帝大病院を辞めたワケ

それに、和は看護学校修了と同時に帝大病院の外科の看病婦取締になり、医療界でその名を知らぬ者はいないほどの奮闘ぶりだったといいますが、そんな和が帝大病院を辞めた後、雅が3カ月後に続けて辞めているという事実も大きかったです。和は帝大病院時代に看病婦たちの疲弊が看護の質の低下にもつながると考え、待遇改善を訴えましたが、黙殺されました。

そこで、外科の責任者である教授の佐藤三吉宛てに看護教育の充実と看病婦の待遇改善を訴える建議書を提出しましたが、この建議を医師たちは許さず、和の看護婦としての能力を高く買いつつも、和を解任します。そこで和は帝大病院を去ることにしたのです。和はこの件について「私たちの思いは受け入れられなかった」というような内容で、不満を書き記していますが、和は自分1人ではなく「私たち」という言葉を使っているので、雅も同じ気持ちだったのでしょう。

もし和と雅の結びつきが薄ければ、雅はそのまま帝大病院にい続けたでしょうから。2人が同じ不満を抱えていて、和の去った病院ではもう続けられないと雅もおそらく思っただろうからこそ、辞めたのだと私は読んでいます。

大関和は黒羽藩家老の次女だった

大関和は1858年(安政5年)、現在の栃木県大田原市黒羽くろばね田町、当時の黒羽藩重臣・大関弾右衛門だんえもん増虎の次女として生まれました。増虎は藩主・大関増裕に仕えた忠臣で、増裕は1868年1月(慶応3年12月)に急死しています。増裕の死については、和が父から聞いた話として「自ら死を選んだ」としているので、私はそれを採用して書いたのですが、事故説や暗殺説もあります

私も藩主が亡くなった那須神社の裏手に行ったことがありますが、今は何も残っていない草むらでした。そして、増虎は1876年(明治九年)に50歳で亡くなっています。本書の中では、お母さんにできたのはおまじないに頼ることだけだったということ、そして和が最初に命のはかなさを知った出来事として描いています。

朝ドラご当地である栃木県大田原市
桜井看護学校1期生の卒業写真での大関和
桜井看護学校1期生の卒業写真での大関和(写真=医療法人知命堂病院提供)

地元の大田原市では、朝ドラを機に郷土の偉人を知ってもらおうと、各所で大関和についての展示が行われたり、生家があったあたりに記念碑が建てられたり、とても盛り上がっています。

大田原市那須与一伝承館では今年3月から特別企画展も始まっています。地元の方々と話していて感じるのが、黒羽という土地の学問への高い意識です。和がこれほど多彩な知識を身につけていたのも、学芸を重んじるこの土地の気風が育んだものなのかもしれない、という気がしています。

和がいつ上京したかも二説あります。10歳で上京したという説と、離婚するまで地元にいたという説と。本では10歳で上京した説をとりましたが、離婚後に上京したと考える方が自然です。

上京後の一家がどのように生計を立てていたかについても諸説あります。一説には、雑貨を売る商売をしており、外国人の客とやりとりするために英語を習ったということです。

和はどうやって英語を学んだのか

和が英語を学んだのは、植村正度が開いていた英語塾です。そこでキリスト教に興味をもち、正度の兄、植村正久牧師に出会います。

大関和と親交があったキリスト教伝道者・植村正久の肖像、1925年以前
大関和と親交があったキリスト教伝道者・植村正久の肖像、1925年以前(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

和の夫については、故郷・黒羽の士族「柴田豊之進福綱」という名前にしていますが、本名は違います。当時の時代性を考えるとそれが当たり前のところもあったのかと思いますが、「妾」がいて、それが離婚の原因となっています。諸々考えて、ここで史実どおりの名前を使う必要はないと判断しました。

和は1876年(明治9年)に19歳で結婚し、長男・六郎、長女・シンを産んだ後、離婚しています。本でも書いたように、(社会運動家の)木下尚江との結婚を考えた時期もありましたが、破局しています。その後も和には結婚願望が強くあったようです。まわりに仲のよい夫婦が多かったことも影響しているでしょう。

感情が激しすぎる面もあったが…

実は、大関和のキャラクターについて、調べ始めた頃は正直、物語の主人公として大丈夫かなという不安もあったのです。当時の記録では、こんな記述があるんですね。

「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々しげしげ来られては堰せきを切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄からかうのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう、それじゃ宛然『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(『植村正久と其の時代 第二巻』)

「泣キチン蛙」はもちろんナイチンゲールをかけた言葉で、それほどよく泣く人だったという意味です。これを読んだばかりの頃は、主人公として感情的すぎないかと不安もあったのですが、調べていくうちに、感情が豊かなだけで芯は強く、相手が誰だろうと、臆せず忖度せずに言いたいこと、言うべきことをビシッと言えてしまう人だということがわかってきました。

内務省衛生局の局長だった後藤新平――公衆衛生行政の中枢にいた人物――に看護婦についての制度を作ってほしいと直談判しています。泣きながら談判するのですが(笑)、やることはきちんとやってのける。最後は大好きになりました。

和はシングルマザーで、亡夫の恩給があった雅ほど生活が安定しておらず、そのなかで子どもを養わなければいけないのに、せっかく就いた帝大病院の看病婦長という看護婦としては日本一の仕事を、部下のために建議して辞めてしまう。保身に走らず、自分が正しいと思ったことをする。そこが和という人のすごさだと思うんです。

和は献身的な看護で尊敬された
田中 ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)
田中 ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)

当時の記録には「大関婦長が病室に入ってくると患者の顔が明るくなる」という言葉も残っていて(相馬黒光『穂高高原』より)、その看護がいかに人の心に届くものだったかが伝わってきます。口癖は「金は天下の回り物(天下の持ち回り)」で、あるもの全部人にあげてしまう人でした。17歳の時に和の看護を受けてすごく感謝して、亡くなるまで支援したのが、のちに新宿中村屋の創業者となる相馬愛蔵です。一生感謝されるくらいの熱心で献身的な看護だったということでしょうね。

『明治のナイチンゲール 大関和物語』について、史実とフィクションの境目がどこかと聞かれたら、こう答えます。生まれた時代や場所、きょうだい関係、主要な職歴は間違いないですが、人間関係の細かなやりとりや会話はほとんどフィクションです。それは史料には残っていないからです。たくさんの史料を読み込み、大関和と鈴木雅の性格と、この時代背景だったらこう考えただろう、こう動いただろうという想像から出てきたものが多いのです。

大関和の写真
大関和の写真(写真=医療法人知命堂病院提供)
朝ドラきっかけで始まった交流

大関和や鈴木雅について調べ始めたことで、そのご子孫の方たちとの縁ができ、ご身内ならではのエピソードをうかがったり、史料を提供していただくことができました。こんなに自由に書かせていただき、恐縮していますが、みなさんとても温かいのです。

それに、ドラマを観ながら改めて感じたのは、明治ってこんなにも近い時代だったんだなということ。ご子孫の方たちから聞いたエピソードや史料を基に、新たに書き記したいこともたくさんあります(笑)。

取材・構成=田幸和歌子

田中 ひかる(たなか・ひかる)
歴史社会学者・作家
1970年、東京都生まれ。学習院大学法学部卒業。予備校・高校非常勤講師などを経て、専修大学大学院文学研究科修士課程、横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程に学ぶ。博士(学術)。著書に『生理用品の社会史』(角川ソフィア文庫)『月経と犯罪 “生理”はどう語られてきたか』(平凡社)、『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』(中央公論新社)、『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)など。

元記事で読む
の記事をもっとみる