1. トップ
  2. フジテレビではなくTBSのアナウンサーになっていたかも!?【笠井信輔さんのターニングポイント#1】

フジテレビではなくTBSのアナウンサーになっていたかも!?【笠井信輔さんのターニングポイント#1】

  • 2026.3.17

フジテレビではなくTBSのアナウンサーになっていたかも!?【笠井信輔さんのターニングポイント#1】

アナウンサーとして第一線を走り続けてきた笠井信輔さん。テレビ人生の中には、仕事や家族、そして病気との向き合い方など、いくつもの転機があります。何を感じて、どう行動してきたのか。人生を前に進めるヒントを伺いました。第1回は、アナウンサーという夢をつかむまでの道のり。

笠井信輔さん Profile

かさいしんすけ●フリーアナウンサー
1963年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。「とくダネ!」など、おもに情報番組で活躍。2019年10月、フリーアナウンサーに転身。直後、ステージ4の悪性リンパ腫に罹患していることが発覚。12月より入院。ブログで闘病の様子を綴った。2020年6月に完全寛解し、その後仕事に復帰。著書に『僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た』(産経新聞出版)(新潮文庫)、『生きる力~引き算の縁と足し算の縁~』(KADOKAWA)など。

夢みたいな話を応援してくれる大人がいるんだ!

——フジテレビの局アナ、そしてフリーアナウンサーとして約39年のキャリアを重ねて来た笠井さんにとって、“しゃべる仕事”はまさに天職。アナウンサーを志したきっかけは何でしたか?

小さい頃からおしゃべりだったらしいんです。それも、親がびっくりするくらい。僕自身も、小学校に上がるころからテレビの世界に憧れていました。

最初に「しゃべることは楽しい」と思ったのは小学3年生のとき。当時住んでいた町田市に「ひなた村」という子どもの情操教育ための施設があるんですが、子ども祭りで僕が1日、ステージの司会を任されたんです。

そうしたら大ウケして、褒められましてね。それがうれしくて、自分にはこういうことが向いているんだと気づきました。

——まさに、三つ子の魂百まで、ですね。

それからは、小学校でも中学校でも、イベントがあれば手を挙げて司会に立候補する。クラスメートからは「また笠井君⁉」と半ばあきれられていました。

児童会長になったのも、生徒会長になったのも、マイクスタンドの前に立ってしゃべりたかったからなんです。

高校で放送委員会に入ったのも、昼休みに流す校内放送でどうしてもしゃべりたかったから。それまでディスクジョッキーは女子、と決まっていた都立狛江高校の伝統を打ち破って、僕が初のディスクジョッキー男子になりました。

——ということは、高校時代にはテレビ局のアナウンサーになりたい、と心に決めていたということですね。

担任に進路相談に行って、「アナウンサーになりたいから東京六大学に行きたい」と言ったら、「いまの学力では無理である」と。でも、「笠井はアナウンサーでも何でもいいから、テレビに出ろ」と言って下さったんです。この担任の言葉が大きかった。

案の定、浪人することにはなりましたが、僕の「しゃべることを仕事にしたい」という夢みたいな話を応援してくれる大人がいるんだということが励みになって、翌年、早稲田大学に合格できました。

高校の卒業アルバムに「僕を忘れそうになったらテレビを見てくれ、出ているから」と書いてみんなに笑われたけれど、今クラス会をやると、「笠井は本当にそうなったよな」と言われます。

「映画を見るのを止めさせるくらいなら……」

——早稲田大学と言えば、久米宏さん(TBS)、逸見政孝さん(フジテレビ)はじめ、多くの著名なアナウンサーの出身大学ですね。

うちは父も母も早稲田大学出身で、家には早稲田グッズしかないような環境で育ったんです。応援歌の『紺碧の空』も完璧に歌えました。だから、何としても早稲田に入らなきゃって思ったんですね。

——ご両親からの“早稲田プレッシャー”は感じませんでしたか?

これが、母から「勉強しなさい」と言われた記憶がないんです。

浪人時代も、僕が部屋に引きこもり状態で必死に勉強していたので、「信ちゃん、もう勉強しなくていいから出て来て」って涙目になっちゃうような人なんです。

ただ、小学2年生のある日、母に家からバスと電車を乗り継ぐような遠くにある矯正歯科に連れて行かれて、中学2年生まで通いました。もともとの僕は不整咬合のひどい歯並びだったんです。

当時は審美歯科なんて言葉もない時代でしたけれど、矯正費用は高額だったはず。でも親父は地方公務員、僕の下に弟が2人いて家族5人の団地住まいですから、お金に余裕があるわけはないんです。

大人になって「あのお金はどうしたの?」と母に聞いたら、「おじいちゃんに借りた」と。「いつ返したの?」と聞いたら、「まだ返していない」と。貸してくれた祖父はとうに亡くなっているんですけれどね(笑)。

だから、母は僕が小学4年生のときすでに、「この子はいずれ表に出る」っていうことを信じていたんだと思います。

——お母さまの“子どもが好きなことを信じる”という姿勢がすばらしいですね。

僕は中学生のころから映画も好きで、年間20本くらい見ていたんです。町田にも映画館はあったけれど、『スターウォーズ』とか『未知との遭遇』は、どうしても大きなスクリーンで見たくて、新宿の歌舞伎町に一人で通っていた。そうすると、治安のよくない場所でしたから高校生にカツアゲされたりする。当然、母に「危ないから」と止められました。

でも、僕は「どうしても歌舞伎町で映画が観たいんだ」と食い下がったら、母は「それなら、観た映画1本ごとに感想文を書きなさい」と。僕は喜んで、その提案にのりました。

——約束してはみたものの、毎回、感想文を提出するのはたいへんだったのでは?

中高生時代を通して、「ぴあ」とタイトルをつけた映画感想ノートは大学ノート5冊分にもなりました。

もちろんいまも、シネフィル(映画狂)を自認するくらい映画が好き。『ぴあ』や『産経新聞』で映画の連載をさせていただいているのも、母の「映画を見るのを止めさせるくらいなら、文章を書かせたら役に立つかな」という直観のおかげだったような気がします。

全く教育ママではなかった母ですが、子どもの将来を見通すことに関してはすごい人だったんだと思います。

最後まで諦めなかった人が夢を叶えている

——そして、フジテレビに念願のアナウンサーとして入社。アナウンス職の入社試験はとりわけ高倍率だと聞いています。

大学では放送研究会に所属したり、アナウンススクールに通ったり、準備はしていました。久米宏さんが初代司会者だった『ぴったし カン・カン』(TBS系)の予選会の司会や本番の前説のアルバイトもオーディションでつかんだ仕事です。

しかもこれが、代々局アナに合格する、という伝説のアルバイト。毎回、観客席を大いに盛り上げていた僕は、制作部長から「TBSを受ければ合格するよ」と太鼓判を押されていました。ところが、その年に限ってTBSは男性アナウンサーの募集なし……。

——思いっきりはしごをはずされた感じですね。

愕然としましたが、結局、僕はフジテレビでよかったと思うんです。32年半も局アナとして勤めたうえ、フリーアナになったんですから。夢は叶ったんだと思います。

だから今、小学校や中学、高校で「夢を諦めない」というテーマで授業をやっているんです。

最近の子どもたちは、夢なんか持って、叶わなかったら恥ずかしい、無駄だって言う。でも、そうやって夢を諦め、脱落していく人がいる中で、最後まで諦めなかった人が夢を叶えているんだ、と。宇宙飛行士だって、漫画家だって、サッカー選手だって、誰かが夢を叶えている。「好き」「これになりたい」と思うことがあったら一生懸命やり続けることが大事。仮に夢が破れたとしても、夢を持ち続けたパワーは次につながる、と話しています。

最近、僕の授業を聞いた高校生から「医者の夢を諦めかけていたけれど、笠井さんの話のおかげで医学部に合格しました」という手紙をもらったんです。先生たちの間でも語り草になっている、と聞いて、うれしかったですね。

笠井信輔さんのターニングポイント①
32年半も局アナとして勤めたうえ、フリーアナになったんですから、夢は叶ったんだと思います。最後まで諦めなかった人が夢を叶えている。仮に夢が破れたとしても、夢を持ち続けたパワーは次につながります。

撮影/橋本哲

元記事で読む
の記事をもっとみる