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「20キロ痩せてこい!」山﨑武司が明かす星野仙一の荒療治と覚醒前夜

  • 2026.2.28

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第6回は、星野ドラゴンズ政権下で主砲も担った山﨑武司に話を聞いた。【山﨑武司インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

「僕は《星野組》の組合員ではなかった……」

「星野チルドレン」「星野組」という言葉を口にした後、山﨑武司はこう続けた。

「星野さんは僕のことをかわいがってくれたとは思うけど、それでも僕は《星野チルドレン》ではなかった。そのメンバーは立浪(和義)であり、中村(武志)さんであり、山本(昌)さん、彦野(利勝)さん、今中(慎二)で、決して僕ではなかった。ドラゴンズには、いわゆる《星野組》というのか、星野さんの組合があったんですけど、僕は組合員じゃなかった。むしろ、その組合に入らないようにしていたから……」

現役時代を振り返った山﨑は、静かに言った。どうして、自ら「入らないようにしていた」のか? その理由を尋ねると小さく笑った。

「僕は、みんなが“右向け、右”と言うなら、左に行く性格だから(笑)。ひねくれているんです。あの頃の僕が思っていたのは、“全部が全部、星野さんの言うことを聞いていてはダメなんじゃないか”ということ。決して懐かないから、星野さんとしては僕のことはかわいくなかったはず」

監督と選手の間には、圧倒的な権力勾配がある。絶対的な力関係がある中で、「決して懐かない」ことは、選手として得策ではないはずだ。それでも、みんなが右に行くなら、あえて左を目指す山﨑にとって、30年に及ぶ星野との交流は山あり谷ありの人間ドラマであった。「結局、ボタンを掛け違えたまま、星野さんは亡くなってしまいました……」と語る山﨑にとって、星野とはどんな人物だったのか?

プロ入り早々、アメリカ行きを命じられる

最初の出会いはプロ入り前、山﨑が愛工大名電高校3年の春のことだった。突然、星野が高校に現れたのだ。

「当時の星野さんはNHKのキャスターを務めていた頃で、たまたま高校の寮のある春日井市で講演があって、そのついでに学校にやってきました。おそらく、すでに翌年からの監督就任の話があって、“名電にいい選手がいる”という話を聞いて、僕のことを見に来たようでした」

このとき、山﨑はそんな事情など知らない。その年の秋、ドラフト2位で中日ドラゴンズから指名されて初めて、「あぁ、そういえばあのとき……」と思い至ることになる。1987(昭和62)年、星野が監督に就任すると同時に、山﨑もドラゴンズ入りを果たす。プロ入団後、山﨑はすぐにアメリカ留学を命じられた。指令を下したのは星野だった。

「あの当時は高卒選手が即戦力で活躍することはほぼなかったので、僕としても“数年は下積みを経験しよう”と考えていました。そんなことを思っていたときに、いきなり監督室に呼ばれて、“今すぐアメリカに行け”と星野さんに言われました。そんなことを言われたって、パスポートもないし、ビザの手続きもしていない。そう説明したら、“オレが行けって言ったら、すぐに行け!”と言われたことを今でも覚えていますよ(笑)」

ロサンゼルス・ドジャース傘下であるルーキーリーグのガルフ・コーストリーグ・ドジャースでは三塁手としてプレーした。捕手としてプロ入りしていたものの、チームには2学年上の中村武志が将来の正捕手として有望視されていた。それはむしろ、山﨑にとっては好都合だった。

「僕は元々、キャッチャーはやりたくなかった。中村さんが正捕手として期待されているのはわかっていたので、そもそもキャッチャーとしての向上心は持っていなかった。バッティングで勝負したかったので、むしろサードのほうがよかったんです。でも、なかなかチームはコンバートをしてくれない。そんな状況がしばらくの間続きました」

1987~91年までの第一次星野政権期、山﨑はキャッチャーを中心としつつ、サード、ファーストなど、なかなかポジションが固定されない状況が続いた。この間、プロ3年目となる89(平成元)年、プロ初安打を放ち、星野の監督最終年となる91年には初ホームランも記録した。それでも、なかなか一軍定着できない時期が続いた。

「この頃、星野さんにまったく相手にしてもらえない二軍扱いの選手でした。一応、一軍の試合には出ていたけど、消化ゲームで経験を積ませるためのものばかり。僕が星野さんに相手にしてもらえるようになったのは、96年からの二度目の監督時代のことですから」

第一次星野政権は91年でひと区切りとなった。そして高木守道監督時代を挟んだ96年、再び星野がドラゴンズに戻ってくる。山﨑はチームの中心選手として飛躍が期待されていた。そしてここから、星野と山﨑の関係が本格化するのである。

常に抱いていた、「いつか星野を見返したい」の思い

「95年の秋季キャンプですよ。いきなり星野さんに呼ばれて、“来年2月の春季キャンプまでに20キロ減量してこい”と言われました。このとき、“もしも体重を落とせなければ、わかっているだろうな……”と脅されました(笑)。それで、12月、1月は地獄のダイエットをしましたよ。ほとんど食べなかった。炭水化物、脂質はほとんどとらずにダイエットに励みましたからね」

プロ入り時には、強制的にアメリカ行きを命じられた。そしてこのときは、有無をも言わせぬ勢いでダイエットを強制された。その結果、2月1日のキャンプイン時点で山﨑は22キロの減量に成功し、88キロとなっていた。体重減によって飛距離が落ちることが不安だった。しかし、それは杞憂に終わった。

「体重を落としたことで、バッティングに支障が出るだろうと考えていました。でも、やっぱり身体が軽いからとにかく動けるんです。走ることに関してはすごくラクになったし、それによって瞬発力も出てきた。ボールの飛距離についても、そんなに落ちたわけでもない。この年のキャンプはすごくラクだったことを覚えていますね」

前年には16本塁打を記録していた。星野が監督に復帰したこの年は「背番号ぐらいは打ちたい」と、22本塁打を目標としていた。しかし、その目標は上方修正することになる。前述したダイエット効果のたまものだった。

「自分でも驚いたけど、ダイエットで絞ったことで、身体にキレが出てきました。そしてボールも飛ぶようになった。星野さんの狙いが見事にハマったんです。自分は《星野チルドレン》じゃなかったから、心のどこかで“星野さんに認めてもらいたい”とか、“星野さんを見返したい”という思いで頑張ることができたのも事実。認めてもらうためには結果を残すしかない。そんな思いでこの年は過ごしました」

星野が監督に復帰した96年、山﨑にとってのプロ10年目、その才能が開花する。39本塁打でホームラン王のタイトルを獲得したのである。「自分は星野組の組員ではない」という自覚があった。自ら選んだ道ではあったが、この頃の山﨑の内心には複雑な思いが渦巻いていたという。

「僕自身、何でもかんでも“はい、はい”と人に飛び込んでいくタイプじゃないし、そういうことが好きじゃなかった。それに、“”必ずしも星野さんの言うことが絶対だとは思わない”という考えもあった。実際に、“いや、それは違うと思います”と言ったこともありました。そんな態度は、上の人から見ればやっぱり面倒くさいと思いますよ。決して星野さんに嫌われていたとは思わないけど、立浪や中村さん、彦野さんとは違うテイストでかわいがってもらった気がしますね。それは後に楽天で一緒になったときもそう。“アイツ、かわいくねぇな”って思われていたはず(苦笑)」

こうした事態を称して、山﨑は「星野さんとは初めからボタンを掛け違えていた」と口にした。そしてここから、「監督と主砲」としての関係が新たに始まることになる——。

山崎武司「後編」に続く)

Profile/山﨑武司(やまさき・たけし)
1968年11月7日生まれ。愛知県出身。愛工大名電高校から、86年のドラフト2位で中日ドラゴンズ入団。アメリカマイナー留学を経て、89年に一軍初出場。星野第二次政権が誕生した96年に39本塁打を放ち、ホームラン王を獲得。2003年にトレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。04年オフに戦力外通告を受け、05年からは新球団東北楽天ゴールデンイーグルスへ。07年には43本塁打で11年ぶりのホームラン王、打点王の二冠に輝く。12年からは古巣のドラゴンズへ。13年限りで現役を引退。現在は野球評論家。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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