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「おっさんボケェ!」と叫んだ主砲・山﨑武司が語る星野仙一との愛憎11年

  • 2026.2.28

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか?彼が球界に遺したものとは何だったのか?彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第6回は、星野ドラゴンズ政権下で主砲も担った山﨑武司に話を聞いた。【山﨑武司インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

山﨑と大豊を天秤にかけた星野仙一

星野仙一が中日ドラゴンズの監督に復帰した1996(平成8)年、自身初となるホームラン王のタイトルを獲得した山﨑武司の活躍もあって、チームは2位に躍進した。しかし、翌97年は一転して最下位に沈んだ。原因は明白だった。この年開場したナゴヤドーム(現・バンテリンドーム)に適応できなかったためである。山﨑が述懐する。

「それまでのナゴヤ球場から一転して、大きなナゴヤドームになりました。でも、チームとして広い球場に対応できなかった。そこでトレードをすることになりました。星野さんの指導者としての大きな特徴は、血の入れ替えを行い、チームを活性化することです。このとき、ドーム球場に対応した機動力野球を実践するために、大豊(泰昭)さん、そして僕がトレード候補になったんです」

ナゴヤ球場最終年である96年、山﨑は39本、大豊は38本塁打を記録していた。しかし、守備の負担が増えたことも原因となり、ナゴヤドーム元年である97年は一転して、山﨑の本塁打数は19本、大豊は12本と激減。足も使えて守備にも定評のある選手の獲得が急務となった。そこで星野が考えたのが、守備力に難のある大豊、もしくは山﨑を放出し、守備力、機動力のある選手を獲得することだった。

星野の腹心として長きにわたって監督付き広報、個人マネージャーを務めた早川実の自著『夢の途中』には、この年の山﨑について、こんな一節がある。

《山﨑は常にホームランを意識して、三振でも外野フライでもアウトはアウトという考え方。広いナゴヤドームになって調子がおかしくなると、大事なところで星野監督が使わなくなります。それで信頼関係がおかしくなって、「なんでおれを使わないんだ」っていうのも出てきます。タイトルを獲得するほどの選手になれば、「自分はこうしたい」「自分はこう打ちたい」と強く思うようになりますよ。ましてや山﨑は我が強い。》

それでも星野は山﨑を残した。その結果、中日からは大豊、若手捕手の矢野輝弘(現・燿大)、そして阪神タイガースから関川浩一、久慈照嘉による2対2の交換トレードが実現する。山﨑が述懐する。

「このとき、星野さんは僕と大豊さんを天秤にかけたんです。でも、僕のほうが若かった。それで大豊さんが阪神に行くことになり、僕は中日に残ることになったんです」

大げさに言えば、「星野は大豊を捨て、山﨑を選んだ」のである。それでも、山﨑の胸の内には「自分は決して星野監督に好かれていない」という思いは消えぬままであった。

「おっさんボケェ! オレを使えば打てるんじゃ!!」

山﨑と星野との関係について、当時のチームメイトであり、山﨑の2学年上の中村武志は「星野さんに歯向かったのは山﨑しかいないですよ」と笑い、次のように振り返る。山﨑の言葉を借りれば、中村は「星野チルドレン」の筆頭である。

「あれはナゴヤドームのことでしたけど、監督が“おい、わかったか”と言ったのに、山﨑は返事もせずに無視して行ってしまった。それで監督も、“何だ、その態度は?”という別の理由で怒りだしてしまったことがありましたね。山﨑の場合、“自分が正しい”と思えば、誰に何を言われようが曲げることはしない。《星野チルドレン》ではないのかもしれないけど、監督から見ればああいう選手はどちらかと言えば好きなタイプですよ」

第三者である中村から見た感想と山﨑自身が抱いた思いは正反対のものだった。99年9月26日、対阪神戦のことだ。2対4とリードされていた9回裏、山﨑は劇的な逆転サヨナラ3ランを放つ。山﨑の自著『さらば、プロ野球』から抜粋したい。

《実はこの時、僕は猛烈に苛立っていました。

調子は悪くないのにスタメンから外れる日が目立つようになり、怒りの矛先はいつしか星野監督へと向けられていったのです。

相手ピッチャーの福原忍から豪快なホームランをレフトスタンドに叩きこんだ僕は、ダイヤモンドを一周する前にベンチを力強く指さし、大声でこう叫びました。

「おっさんボケ! 俺を使えば打てるんじゃ!!」

「おっさん」とは星野監督のことです。》

第一次政権では87年から91年までの5年間、第二次政権では96年から、星野が退任するまでの01年まで6シーズン、合計11年間をドラゴンズのユニフォームを着て「監督と選手」として過ごした。この間、本人も自覚しているように、そして中村も述懐しているように、山﨑は「非星野チルドレン」として過ごすことになる。

そして再び両者は同じユニフォームを着ることになる。05年に誕生した東北楽天ゴールデンイーグルスである。11年シーズンから星野がイーグルスの監督となる。01年以来、10年ぶりの再会。驚いたのは山﨑だった。

「星野さんがドラゴンズの監督を辞めた後、接点はなかったんです。でも、このとき楽天監督就任が決まった。“おいおい、まさかオレの後をついてくるとは……”と思いましたよ。自分も現役晩年に差し掛かっていたので、“たぶんこの1年でクビになるだろうな”と感じていたんですが、案の定、クビになりました(笑)」

03年からオリックス・ブルーウェーブ、そして05年からは誕生したばかりのイーグルスに移籍していた山﨑と星野の人生が、改めて交錯することになったのである。

中日時代と選手の接し方を変えていた楽天時代

「楽天時代の星野さんは明らかに丸くなっていましたね。若い選手には怒らずに、代わりに僕に対してめちゃくちゃ怒る。すると、若い選手たちは“あの山﨑さんが怒鳴られている”ということでピリッとする。直接言わずに、ベテランを通じて若い選手に指導する。そんなやり方に変わっていました」

第一次中日監督時代に見せていた鉄拳制裁は影を潜めていた。「それまでのやり方だと若い選手はついてこないから」と山﨑は分析する。一方で「変わらないこと」もあった。それが星野特有の「大胆な血の入れ替え」だった。

「星野さんの指導者としての大きな特徴は革新を起こすこと。中日監督時代も、阪神監督時代も、大胆な血の入れ替えを行いましたよね。11年、楽天監督就任のときもメジャーリーグから日本に復帰した松井稼頭央、岩村明憲を獲得。実力と実績のある選手を獲得して競争心をあおってチームを活性化するためです」

山﨑の言葉にあるように、最初にドラゴンズ監督に就任したときには牛島和彦ら4人を放出してまで落合博満を獲得し、第二次監督時代には前述のように大豊、矢野を放出してチーム改革を図った。また、阪神監督時代にも金本知憲や伊良部秀輝の獲得に成功してチームを優勝に導いている。

「11年シーズンの6月だったと思うけど、星野さんに呼ばれて、“お前、来年はどうするんだ?”と聞かれたから、“来年もやりたいです”と答えたら、“やればええやないか。オレがいいって言うんだから、問題ない”と言われました。でも、9月にまた呼ばれたときに、“今年で引退しろ”と言われたんです」

6月から9月にかけて何があったのかは山﨑にはわからない。けれども、今ではこう考えている。

「当時のうちのチームは、《楽天=山﨑》というイメージが強かったので、星野さんはそれを嫌ったんじゃないのかな? 中日、阪神監督時代のように血の入れ替えをしたかったんだと思う。星野さんに“辞めろ”と言われたら従うしかないでしょ。一度口にしたら、絶対にそれが覆ることはないから」

星野から学んだのは「生きるか死ぬかの闘争心」

このとき星野は、山﨑にコーチの打診をしている。

「星野さんに呼ばれて、“いずれは監督をやりたいんだろう? だったら、オレの下で監督業を学べよ”と言ってもらいました。普通の人であれば、“はい、わかりました”って言うのかもしれないけど、僕にはそれはできなかった」

イーグルスが誕生して7年が経過していた。それまで、後輩たちに対して「プロであること」を厳しく求め続けてきた。「指導者」という安定した立場を得ること、自分の保身のために星野の提案を受け入れることは、自分自身にウソをつくような気がした。後輩たちに顔向けできない思いもあった。だから山﨑は、あくまでも現役続行にこだわり、古巣・ドラゴンズへの移籍を決めた。

「ドラゴンズへ移籍してからは、“どうすれば星野さんを見返すことができるか?”と、それだけを考えていましたね。楽天戦でサヨナラヒットを打ったことがあるんですけど、そのときがようやく見返した瞬間でしたね。きっとはらわたが煮えくり返っていたはず(笑)」

山﨑が口にしたのは13年5月17日、楽天・青山浩二から放ったサヨナラ打のことだった。「心からのガッツポーズが自然に出たよ」と山﨑は笑った。そしてこの年限りでユニフォーム脱ぐことを決めた。プロ生活27年の完全燃焼だった。

「星野さんから学んだのは、生きるか死ぬかの闘争心でした。斬るか斬られるか、勝負に対する厳しさを教えてもらいました。最後までボタンを掛け違えたままだったけど、星野さんから学んだ闘争心はプロで長くプレーするために必要なことだったと思います」

愛憎半ばする思いを抱きつつ、長年にわたって接してきた星野をひと言で表すとすればどんな表現になるのか? 山﨑に問うと、しばらくの間、視線を宙に泳がせ、ようやく口を開いた。

「パッと浮かんだのは《二重人格》という言葉です。ユニフォームを着ているときは“お前なんか二度と使わん”とか、“死んじまえ”なんて厳しい言葉を投げつけられるけど、宿舎の食事会場では普通の気のいいおっちゃんに戻っているからね。野球に関しては《独裁者》だけど、プライベートは決してそうじゃない。だけど、《二重人格》でも《独裁者》でも、何か違う気がするし……」

しばらくの沈黙の後、山﨑の笑顔がはじけた。

山﨑武司が考える星野仙一とは?――“星”

「……あっ、名前にかけるわけじゃないけど、星野さんは《星》です。どこに行っても目立っていたし、常に人の中心で輝いていた。うん、《星》ですね。それがピッタリな表現だと思います」

「自分は星野チルドレンではない」という思いとともに星野と接してきた。心の奥底には慕う気持ちを抱きつつ、「おまえらと違って、オレは星野仙一と闘うよ」という思いでプレーを続けてきた。それが原動力になってプロ野球選手として完全燃焼をした。その思いは、星野が亡くなった後、さらに強くなった。

「僕は決して《星野組》でも、《星野チルドレン》でもなかった。星野さんも、僕のことは扱いづらかったと思います。だけど、“星野さんのおかげでこの世界で飯を食えるようになったんだ”という感謝の思いは当然あります。今になってようやく、“僕は星野チルドレンにヤキモチを焼いていたんだな”という思いは強くなっていますね」

(次回、権藤博編に続く)

Profile/山﨑武司(やまさき・たけし)
1968年11月7日生まれ。愛知県出身。愛工大名電高校から、86年のドラフト2位で中日ドラゴンズ入団。アメリカマイナー留学を経て、89年に一軍初出場。星野第二次政権が誕生した96年に39本塁打を放ち、ホームラン王を獲得。2003年にトレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。04年オフに戦力外通告を受け、05年からは新球団東北楽天ゴールデンイーグルスへ。07年には43本塁打で11年ぶりのホームラン王、打点王の二冠に輝く。12年からは古巣のドラゴンズへ。13年限りで現役を引退。現在は野球評論家。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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