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「川の土手を走って」ざっくりした指示に戸惑うタクシー運転手…後から発覚した“予想外の理由”に、運転手「しまった」

  • 2026.2.24
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出典:photoAC ※画像はイメージです。

こんにちは。現役タクシードライバーのけんしろ★です。

長年タクシードライバーをしていると、ごく稀にですが、「行き先を言わないお客様」がいらっしゃいます。
ご周知の通りタクシーでは通常、乗車された直後に行き先を伺います。

「ありがとうございます。どちらへ参りましょうか?」
「○○○まで」
「かしこまりました」

このやり取りが基本です。ところが、

「まっすぐ行って」
「次の信号を右ね」
「この先の路地を左」

正直なところ、ざっくりでも「○○町まで」と言っていただけたほうが助かります。

目的地が分かれば、頭の中でルートを描き、交通状況や混雑も含めて事前に判断できます。
一方で「まっすぐ」「右」「左」だけだと、こちらは一瞬も気を抜けません。聞き逃したら終わりです。

確認のために聞き返すと、機嫌を損ねられることもあります。
このタイプのお客様には、ただただ機械的に、言われた通りに運行するようにしています。

春の午後、ご高齢のご婦人

ある春の午後、おそらく80代くらいのご婦人が乗車されました。

「ありがとうございます。どちらへ参りましょうか?」
「ひとつ目の信号を右へ曲がってちょうだい」

―正直、来たなこのパターン、と思いました。

とはいえプロとして、事故だけは絶対に避けなければなりません。
特にご高齢の方は、急ハンドルひとつでも車内でバランスを崩し、頭を打つ危険があります。

私はできるだけ丁寧に速度を落とし、ゆっくり右折しました。
急に曲がるように指示された時のために、神経を集中しました。

目の前には一級河川にかかる橋がありました。水面は春の光を反射してきらきらしていて、土手の草は柔らかく伸び始めていました。

「橋を渡ったら右折して、川の土手を走ってちょうだい」

土手の道はよく使うルートです。ところどころに下へ降りる出口があり、どこで降りればどの町につながるかは自然と頭に入っています。

きっと途中で降りるのだろうと思っていました。

しばらくして、ご婦人がぽつりと聞きました。

運転手さん、この道、バスは走ってるの?」

確かに古びたバス停はあります。ただ私は、この道でバスを見た記憶がありません。

「何度も通りますが、バスは見たことないですね」
「……そうなのね」

それきり、ご婦人はまた静かになりました。

ご婦人の目的地

そのまま一言も交わさないまま、土手の出口が近づいた頃のことです。

「運転手さん、ありがとう。また、乗った所へ帰ってちょうだい」
「……え?」

忘れ物でもしたのかと思いましたが、とにかく私は言われるままUターンしました。正直、不安もありました。

ところが、帰り道でご婦人は急に饒舌になったのです。

「ほら、川の向こう。工場がたくさんあるでしょう?昔はあんなの全然なかったのよ」
「向こうの橋も、昔はかかってなかったわ。変なお願いしてごめんね」

謝られても、私は状況が理解できず、ただ慎重にハンドルを握りました。
そして最後に、ご婦人はこう言いました。

「まだ女学生の頃、この土手をバスに乗って通ってたの。もう一度だけ、この景色を見たかったのよ」

その瞬間、すべてが腑に落ちました。
この方の目的地は、住所ではなく、何十年も前の「思い出」だったのです。

私は「しまった」と思いました。

いつもの癖で、忙しい人を運ぶときと同じ感覚で土手を走ってしまっていたからです。本当は、もっとゆっくり走るべきでした。

言葉にはできませんでしたが、せめて帰り道だけは、できる限り速度を落として運転しました。
春の川の景色が、ご婦人の記憶の中の景色と重なるように、丁寧に、丁寧に。


ライター けんしろ★
スクールバス運転手として子どもたちを、
タクシードライバーとして日々さまざまな人を乗せています。
車内という限られた空間で生まれる沈黙や距離感を、現場の視点からお伝えします。