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“27年前”の名作ドラマに潜んでいた90年代の危うさ… いま見返して改めて気が付く“令和との差”

  • 2025.10.2
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反町隆史 (C)SANKEI

1998年に放送された『GTO』は、元暴走族の教師が私立高校で巻き起こす騒動を描いた学園ドラマだ。
三流大学を7年かけて卒業した元暴走族の鬼塚英吉(反町隆史)は、私立高校・武蔵野聖林学苑の教師として採用される。
しかし鬼塚が担当することになった2年A組は生徒による陰湿ないじめによって担任が次々と変わる問題のクラスだった。
鬼塚も赴任してすぐに生徒のハニートラップにひっかかり窮地に陥るが、持ち前のバイタリティと愛嬌の良さ、そして元暴走族としての不良性を武器に、次々とトラブルを解決していく。

藤沢とおるが週刊少年マガジンで連載していた人気学園漫画『GTO』を映像化した本作は、放送されるとすぐに、大ヒットドラマとなった。
主人公の鬼塚を演じた反町隆史の軽妙な振る舞いの背後に見え隠れするシリアスな芝居は、今観ても魅力的だ。
この『GTO』と『ビーチボーイズ』の成功によって、反町は誰もが認める人気俳優の仲間入りを果たし、彼が歌う主題歌『POISON~言いたい事も言えないこんな世の中は~』も大ヒットした。

テレビシリーズ終了後に作られた、1999年のドラマスペシャルと劇場映画を最後に、反町版『GTO』は一旦終了したが、2024年にはテレビシリーズから26年ぶりとなるSPドラマ『GTOリバイバル』が放送された。

本作がこれだけ息が長いシリーズとなったのは、反町が演じる鬼塚がとても魅力的だからだろう。

90年代の少年少女の抱える「心の闇」と向き合った学園ドラマ

『GTO』が放送された98年は、10代の少年犯罪や援助交際が問題になっていた時代だった。

不良少年の校内暴力が問題視されていた80年代とは違い、表向きは真面目で優しい優等生に見える生徒たちが教師の見えないところで陰湿ないじめをおこなっていることが問題視されていたのが90年代だ。

当時は10代の少年少女が抱える“心の闇”についてのニュースが連日にわたって報道されていたが、『GTO』に登場する生徒たちには、当時の子供たちが抱える“心の闇”が強く反映されていた。
彼らは教師のことを全く信頼しておらず、隙あらば大人を騙して罠にはめようとして、教室では陰湿ないじめをおこなう一方、歓楽街では危険な大人と付き合い、いつ犯罪に巻き込まれてもおかしくないギリギリの状況にいる。
そんな生徒たちに対して教師たちはなるべく関わらないようにし、親は学校に責任転嫁する。
そして、問題が大きくなり犯罪に巻き込まれると、容赦なく切り捨てようとする。

生徒も問題だったが、教師も機能不全に陥っている武蔵野聖林学苑の荒れた校内は、当時(90年代)の日本社会の縮図そのものだった。
そこに社会のルールとは異なる価値観を生きる元暴走族の教師・鬼塚が介入することで生徒たちは変化し、鬼塚に影響を受けた教師たちも自分たちなりの理想の教師を目指そうとする姿が、時にコミカルに、時に情熱的に描かれた。

改めて『GTO』を観直して感じるのは令和の現在との違いだ。
生徒も教師も今の価値観から見ると乱暴で酷いことばかり言い、平気で人を傷つける。
もちろんドラマなので誇張されている部分が多いのだが、それでも教師と生徒が感情をむき出しにして衝突する『GTO』を観ていると、90年代の高校ってこんなに酷かったのかとショックを受けるのだが、同時にどこか清々しくも感じる。

対して、今クールに放送された『僕達はまだその星の校則を知らない』(以下、『ぼくほし』)を観ると、生徒も教師も善人ばかりで、同じ学園ドラマとは思えないくらい平和で優しい世界である。 もちろん『ぼくほし』でも、いじめや闇バイトが描かれており、生徒たちの世界から闇の部分がなくなったわけではない。だが、自分たちの中にある“心の闇”を表に出してはいけないという抑圧に関しては『GTO』の時代以上に強まっているように感じる。
その意味で生徒の問題がわかりやすかった90年代と、表面的には誰もが優しくなったが故に、問題がわかりにくくなった2025年とでは、どちらが問題なのだろうと考えてしまうのだが、実は同じことが98年の『GTO』でも起こっていた。

80年代の明るさを背負った鬼塚の普遍的な魅力

ドラマ版『GTO』の鬼塚は25歳で、80年代に高校生だった世代だ。
教師に対しては反抗的だったが、それでも彼が教師になりたいと思ったのは「学校が好きだったから」で、ケンカはしても陰湿ないじめはやらなかった。

そんな80年代に不良少年だった鬼塚を90年代の高校生にぶつけたのが本作の面白さで、ここでは鬼塚の古さこそが最大の武器となっていた。
『GTOリバイバル』においてもそれは同様で、90年代すら遠い過去となった2020年代の令和の高校生にとって、80年代の不良のメンタリティで生きている鬼塚は、戦国武将と同じくらい遠い野蛮な存在である。しかし、時代遅れの存在だからこそ、現代のルールに縛られずに生きることができたのだ。そんな鬼塚の自由に生きている姿には、時代を超える普遍的な魅力がある。

興味深いのは連続ドラマ版『GTO』では、鬼塚の80年代的な明るさの内実が原作漫画の不良的なものから少しだけズラされており、バブル期の日本を謳歌した若者の中にある軽薄な明るさが強まっていること。

これは脚本に参加した遊川和彦の作家性が色濃く表れた結果だろう。

遊川は『女王の教室』や『家政婦のミタ』といったヒットドラマの脚本を手掛け、今も現役で活躍するベテラン脚本家だが、デビューは80年代で『オヨビでない奴!』や『ママハハ・ブギ』といった明るく楽しいコメディドラマを多数手がけていた。

そんな遊川も90年代後半以降は『真昼の月』や『魔女の条件』といったシリアスな作品が増えていき、80年代的な明るさがじわじわと失われていくのだが『GTO』の鬼塚には例外的に、80年代に遊川がコメディドラマで書いていた、軽薄でお調子者に見えるが胸の奥底には熱い気持ちを秘めた男の子の魅力が宿っていた。

そんな遊川の理想が投影された軽薄だが、優しい男の子像が当時の反町隆史の演技にうまくハマったことで『GTO』の人気は爆発した。 そして、鬼塚の持つ80年代の明るさで90年代の生徒たちの闇を祓うというコンセプトを徹底したことにより、『GTO』は若者の心を掴んだのだ。


ライター:成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)、『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS)がある。