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「ちょっと触っただけだろ」焼きたてパンを素手でつかんだ男性。宿の人が大皿ごと下げた理由

  • 2026.9.17

焼き上がりが運ばれてきた、朝の広間

高校生だった年の秋、家族で温泉宿に泊まった。朝食は広間のバイキングで、七時を過ぎると席はほとんど埋まっていた。

父と母は先に汁物を取りに行き、私は皿を持ったまま台の前の列に並んでいた。

中央の台に、焼きたてのパンを山にした大皿が運ばれてきた。湯気が立っていて、並んでいた人たちから「おいしそう」と小さな声が上がった。

そのとき、私の三つ前にいた60代くらいの男性が列を離れ、台の横へ回り込んだ。

男性は置いてあるトングを使わず、素手でパンを5個まとめてつかんで自分の皿へ置いた。

さらに、そのうち2個を手に取って裏側を見ると、そのまま大皿へ戻した。

列の先頭にいた女性が少しためらってから声をかけた。

「あの、すみません。それ、一度触ったものですよね」

男性は振り返り、怪訝そうな顔をした。

「え?戻しただけだけど」

「手で触ったものを戻されるのは、ちょっと…」

「そんなに気になる?別に汚してないよ」

女性は言葉に詰まり、それ以上は何も言わなかった。

男性の声が少し大きかったため、周囲にいた人たちもこちらを見ていた。さっきまでパンへ伸びていた手も止まり、大皿の前だけ妙な空間ができた。

ちょうどそのころ、汁物を取った父と母が戻ってきた。父は様子を見て、私の肩を軽く引いた。

「少し離れてよう」

私は父と一緒に半歩下がった。

大皿が引き上げられたあとで

騒ぎに気づいたのか、奥から宿の従業員が早足でやってきた。

台の前で大皿と周囲の様子を確認すると、並んでいた客へ頭を下げた。

「申し訳ございません。こちらは一度下げまして、新しいものをお持ちします。少々お待ちください」

すると男性が口を挟んだ。

「そこまでしなくてもいいだろ。ちょっと触っただけなんだから」

従業員は男性のほうを向いた。

「申し訳ありません。こちらは交換させていただきます」

「いや、だから…そんな大げさな話じゃないだろ」

男性はまだ納得していない様子だった。

それでも従業員は言い合いにはならず、「恐れ入ります」とだけ返して、大皿を厨房へ運んでいった。

パンがなくなった台の前で、誰も何も言わなかった。

男性はしばらくその場に立っていたが、やがて小さく何かをつぶやき、自分の席へ戻った。

数分後、同じ従業員が新しいパンを盛った大皿を持って戻ってきた。

今度は大皿の横に立ち、トングを持ったまま客に声をかけた。

「こちらでお取りします。いくつになさいますか?」

「二つお願いします」

「はい、どうぞ」

並んでいた人たちは順番にパンを受け取っていった。列が動き始めると、それまで止まっていた周囲の話し声も少しずつ戻ってきた。

私も自分の分と母の分を受け取った。

しばらくすると、先ほどの男性も席から立ってきた。

従業員はほかの客と同じように尋ねた。

「いくつになさいますか?」

男性は大皿を見てから、短く答えた。

「……二つで」

「かしこまりました」

従業員がトングでパンを二つ取り、小皿に乗せて差し出した。

男性はそれを受け取り、何も言わずに席へ戻っていった。

最初に声をかけた女性が、自分の番になったとき従業員へ小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

「お待たせしました」

従業員はそう返して、次の客のパンを取った。

数分もすると、朝食会場はいつものざわめきに戻っていた。それでも私は、大皿の前で一斉に人の手が止まった、あの短い静けさをよく覚えている。


※本記事は、GLAMが独自に実施したアンケートで寄せられた30代男性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています

※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。

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