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『みんなのうた』で流れた【ツトム君のうた】NHK朝ドラ子役が歌った“50年前ソング”には続きがあった

  • 2026.9.26
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斉藤こず恵-1974年5月撮影(C)SANKEI

夕方のテレビから、短い歌の番組が流れてくる。子どもは画面のアニメに目を奪われ、台所の母親も、新聞を広げた父親も、気づけば出だしを一緒に口ずさんでいる。歌っているのが誰かなど、誰も気に留めなかった。

1976年、『みんなのうた』でこの曲が放送された。歌のタイトルは近所の男の子の名前そのままで、歌詞はご近所のうわさ話のように始まる。難しい言葉はひとつもない。それでいて、一度耳に入ると出だしの節が離れない。子どもの歌の番組から生まれた曲は、子どもだけでなく大人の耳もつかんだ。その歌を、ひとりの小学生の少女がレコードに吹き込んだ。

斉藤こず恵『山口さんちのツトム君』(作詞・作曲:みなみらんぼう)ーー1976年6月15日発売

発売から50年たった今年、あの番組でこの歌がまた流れている。ただし、そこで歌っているのは彼女ではない。

画面で歌っていたのは別の少年だった

NHK『みんなのうた』で1976年に放送された初出の版は、東京放送児童合唱団の川橋啓史が歌っていた。田中ケイコのアニメーションと組み合わさって流れたのは、この少年の声だ。2026年のアンコール放送でも、画面に乗っているのは同じ川橋盤である。

ところが一部の人の記憶では、この曲は斉藤こず恵の歌になっている。番組の放送をきっかけに、11社が競うようにそれぞれの歌い手でレコードを出した当時の仕組みが、その入れ違いを生んだ。斉藤盤はその中の1枚で、しかも彼女は放送とほぼ同時期に東映東京制作の同名の短編映画に出演している。

つまり、彼女の歌声は番組の中にはなく、レコードと映画の中にあった。それでも人々は、テレビで覚えた節を、彼女の声で思い出す。番組が耳に植えつけた歌を、ひとりの少女の声が引き取って自分のものにした。競作の中で起きたことを一言でいえば、そういう出来事だった。

朝ドラの少女の声でうわさ話が物語になる

なぜ彼女の盤だったのか。土台にあるのは『鳩子の海』だ。1974年から75年のNHK連続テレビ小説でヒロインの少女時代を演じた斉藤こず恵は、当時大きな注目を集めた子役だった。その少女が歌うシングルとして、この曲は世に出た。

聴いてすぐ分かるのは、彼女の歌に飾りがないことだ。小学生の等身大の声で、近所の男の子を心配する幼馴染みの視点をそのまま口にする。歌のうまさを聴かせにいく気配がなく、教室で友達の話をしている子の声に近い。うまさを聴かせにいかないことが、この曲では強みになる。心配というのは、うまく歌うものではなく、つい口に出てしまうものだからだ。

だからこの盤では、歌詞の「うわさ話」が「物語」になる。合唱団の少年が歌えば楽しい童謡として流れていく筋が、同じ年頃の女の子の声を通ると、本当に隣の家で起きている出来事に聞こえてくる。国民的子役の知名度は入り口にすぎない。入ったあとに残るのは、この声の、心配そうな幼さのほうだ。

明るい節の裏に置き去りの三輪車

作詞・みなみらんぼうの筆による物語は、ごく小さい。幼馴染みの女の子は、近所の男の子の様子を「このごろ少し変よ」と感じる。遊びに誘っても元気がない。訳を聞けば、お母さんが田舎へ帰ったきり戻ってこないのだという。そして3番で、お母さんがイチゴのお土産を持って帰ってきて、ツトム君は笑顔を取り戻す。

家と近所だけで完結する世界だ。大人の事情は一切書かれず、女の子はただ様子のおかしい友達を見ている。表面はどこまでも微笑ましい。ところが聴き直すと、この小さな世界のまん中に、母がいない。出だしの節が明るいぶん、ぽつんと置かれた三輪車の寂しさが、あとから効いてくる。

編曲は千代正行。童謡らしい軽やかな伴奏が、歌の芯にある寂しさをうまく隠している。だから子どもは楽しく歌い、大人は何も気づかないまま一緒に口ずさんだ。隠されていたからこそ、この歌は家中で歌える歌になった。

モデルはいないと書く途中で作者は気づいた

ツトム君にモデルはいない。みなみらんぼうは長くそう答えてきたし、実際、後年エッセイでもそう書き始めた。ところが書き進める途中で、この男の子が自分自身だったことに気づく。中学1年で母を亡くした少年の心情が、幼児の設定を借りて、知らないうちに歌の中へ流れ込んでいた。

そして、3番でお母さんが帰ってくる結末だけが、ディレクターの要請で足した創作だった。ほかは実話に近い。元気のないツトム君も、戻らない母も、それを見ている近所の子の視線も、作者の記憶の側にある。

母を亡くした少年が、母のいない子の歌を、明るい節で書いた。その明るさは強がりでも忘れたふりでもなく、子どもが日常を続けるために身につけてしまう明るさに映る。だからこの歌は、悲しい歌の顔をしていない。

この事実を知ってから聴くと、歌の温度が変わる。イチゴのお土産で終わる3番が、作者が自分に用意してやれなかった帰宅に映る。歌の中でだけ、母は帰ってきた。しかも作者はそれを、頼まれて書いたのだ。

泣かせにいく歌ではない。節は最後まで明るいままで、声も心配そうな幼さを崩さない。それなのに、聴き終えたあとに残るのは、帰ってこなかったほうの母だ。明るい童謡の底に、ひとりの少年の喪失が静かに沈んでいる。50年間、家中で歌われ続けた理由は、そこにある気がしてならない。

視点が代わる続編

物語には続きがある。同じ年の秋、『みんなのうた』で『ユミちゃんの引越し〜さよならツトム君〜』が流れた。ツトム君を心配していた幼馴染みの名がユミちゃんだったと分かり、こんどは引っ越していくユミちゃんをツトム君の視点で描いている。

見つめる様子が入れ替わり、春の歌で名前のなかった女の子が、別れの歌で初めて名前を呼ばれる。ささやかな続きだが、ここまで聴いて、あの春の歌が本当に終わる。

子どものころ、意味も知らずに出だしを口ずさんだ歌が、大人になって聴き直すと、まったく別の顔を見せる。ツトム君の家のドアは、歌の中で一度だけ開いた。あの明るい節は、その一度きりの帰宅を、今も家の前でずっと待っている。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。

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