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40年前、はかなげなアイドルが背筋を伸ばした秋 作り手の眼差しごと届いた“はい”の歌

  • 2026.9.15
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1986年5月、菊池桃子のバースデーパーティーより(C)SANKEI

歌番組の生放送を、家族そろって待っていた頃の話だ。画面の向こうで新曲が次々に披露され、レコード店の壁には毎週のように新しいジャケットが並んだ。その秋、寂しげな歌を得意にしていたひとりの歌い手が、いつもより少しだけ胸を張って歌う姿を見た記憶が、いまも残っている。

菊池桃子。かぼそく、はかなげで、聴く側が思わず息をひそめてしまう声の持ち主だ。その声が、この曲では前を向いた。

菊池桃子『Say Yes!』(作詞:売野雅勇/作曲:林哲司)ーー1986年9月3日発売

うつむきがちな歌い手が背筋を伸ばす瞬間

作詞の売野雅勇は、内気な菊池桃子をほんの少しだけ積極的に見せる言葉と振りを狙って、この曲を書いた。作り手が歌い手の性格まで見たうえで、一歩だけ前へ押し出す。その眼差しが、詞の入口に置かれている。

ここで大事なのは、押し出されるのがあくまで「少し」であることだ。菊池桃子の声を、別人のように張らせるのではない。もともと持っているかぼそさをそのまま残しながら、言葉の側だけを前向きにする。だから聴き手には、彼女が顔を上げたように聞こえる。

かぼそさは、弱さではない。この曲で聴くと、それは一歩踏み出す直前の震えに映る。誰かに「Yes」と答える前の、息を吸う一瞬。その一瞬を、この声はごまかさずに歌っている。だから明るい曲調なのに、どこか胸の奥がきゅっとなる。

歌番組で毎週のように新曲が入れ替わっていた時代に、この震えごと届ける歌い方は、ひときわ人の目を引いた。元気な曲を元気に歌う歌い手はいくらでもいる。元気な曲を、震えを抱えたまま歌えるところに、この歌い手の持ち味がある。その希少さを、当時の視聴者は理屈でなく体感で受け取っていた。

表で前を向き裏で秋の静けさに戻る

9枚目のシングルにあたるこの一枚で、作詞に売野雅勇、作曲と編曲に林哲司という顔ぶれがそろった。言葉の側は、聴き手の背中を軽く叩くような明るさ。旋律の側は、その明るさを支えながら、どこか品のよい湿り気を残す。

林哲司の書く旋律には、陽気に振り切らず、陰りをひとさじ混ぜて聴き手の記憶に残す性質がある。その性質が、菊池桃子の声質と驚くほどよく合った。

強い言葉が柔らかな声に置かれた先

売野雅勇といえば、中森明菜『少女A』やチェッカーズ『星屑のステージ』のように、きらびやかで輪郭のはっきりした言葉を書いてきた作詞家だ。強い光を当てて人物像を立ち上げる、その手つきは同じ時代の歌謡曲の顔のひとつになっていた。

その売野が当てたのは、少しだけ前を向かせるための、やわらかい光だ。輪郭をぼかしたまま前を向かせた。そこに、作り手が本人の持ち味を壊すまいとした気配を感じる。

菊池桃子の声は、強い言葉を強いまま返さない。受け止めて、少し柔らかくしてから返す。だから同じ「Yes」でも、この声が歌うと宣言ではなく、そっと差し出す返事になる。聴き手は命じられるのではなく、隣で一緒に頷くような気持ちになる。その求めなさが、この曲を疲れた夜にも聴ける歌にしている。

作り手の隣に立ってもう一度歌う

林哲司は、杏里『悲しみがとまらない』や中森明菜『北ウイング』、原田知世『天国にいちばん近い島』など、歌い手ごとに違う顔を引き出してきた作曲家だ。菊池桃子に対しては、声を大きくさせるのではなく、声のまま前を向かせる旋律を書いた。この曲で彼女の声が伸び伸びと立って聞こえるのは、旋律が声の背丈に合わせて作られているからに映る。

その作り手との縁は、この一枚で終わらなかった。2023年、林哲司の作曲活動50周年を記念するコンサートに、菊池桃子本人が出演している。作り手の隣に立って、その旋律をもう一度歌う。かつて少しだけ前を向かされた歌い手が、今度は自分の意思で前に立っている。

40年前の秋、テレビの前で見たあの一歩は、一度きりの背伸びではなかった。作り手が信じた分だけ、歌い手はその後も前を向き続けた。この曲を聴き返すたびに、あの小さな「Yes」が、思っていたよりずっと遠くまで届いていたことに気づかされる。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。

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