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「ゲッツーばかり打つバカがおるか!」怒鳴った直後、星野仙一が赤星憲広にかけた意外な一言【インタビュー前編】

  • 2026.7.25

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第11回は、星野が監督として阪神を18年ぶりの優勝に導いた試合でサヨナラヒットを放つなど、星野政権下で圧倒的なインパクトをもたらした赤星憲広に話を聞いた。【赤星憲広インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

星野に憧れた少年時代、そして阪神での「再会」

阪神タイガースの歴史において、2003(平成15)年のリーグ優勝は、18年ぶりに訪れた歓喜の瞬間であった。多くの人々にその感動をもたらしたのが、その前年となる02年に、野村克也の後を継いで監督に就任した星野仙一である。この闘将の招聘(しょうへい)に、プロ2年目を迎えようとしていた若き韋駄天・赤星憲広は胸を躍らせていた。愛知県出身の彼にとって、星野は少年時代からの「憧れのヒーロー」そのものだったからである。

「実際の接点はまったくなかったんですけど、僕は地元が愛知ということもあって、思いっきりドラゴンズファンだったんです。そのきっかけとなったのが、僕が小学生の頃、ドラゴンズの監督を務めていたのが星野さんでした。とにかく熱い監督で、すぐに魅了されました。“ドラゴンズの選手が好き”というよりは、星野監督ファンだということがいちばんの理由でしたから」

ベンチにどっしりと座る昔ながらの指揮官像とは異なり、星野は自ら先陣を切って戦い、激しいガッツポーズでチームを、そしてファンを鼓舞した。その姿に心を奪われた少年は、中学進学時にサッカーではなく野球の道を選択する。

「それまで熱心にやっていたサッカーではなく、“やっぱり野球がやりたいな”という気持ちにさせてもらったのは、あのときのドラゴンズの戦い方を見たからです。それぐらい僕にとっても影響力は大きかったです。“よし、オレも野球を頑張ろう”と思ったきっかけをいただいたのは、星野さんでしたから」

その後、両者の接点は何もなかった。しかし、そんな憧れの存在と、赤星はプロの世界で巡り合うことになる。プロ1年目、赤星は新人王と盗塁王を獲得したものの、チームは最下位に沈んだ。年俸は大きく上がった。それでも心は満たされなかった。「自分が結果を残せたとしても、チームが勝たないと嬉しくない」と実感していたからだ。

「最下位が当たり前になったチームを変えるには、星野さんのような厳しさが必要だと確信していました。だから、星野さんの監督就任が決まったとき、本当に嬉しかったんです。《2年目のジンクス》とか、レギュラーを剥奪(はくだつ)されるかもしれないなんて不安はまったくなかった。幼い頃からの憧れもあったし、“星野さんと一緒にやれる。絶対にチームは変わる”という喜びのほうがずっと大きかった。個人的なことよりも、“チームが変わる”という期待のほうがすごく強かったんです」

星野のために自分は何ができるのか? そう考えるプロセスさえも、「ものすごく楽しかった」と赤星は振り返る。己の数字だけを追った1年目を経て、星野の就任により、赤星は本当の意味での「プロ野球選手」となるきっかけをつかんだのである。

野村時代と星野時代、今岡の変化

1990年代から続く暗黒時代。吉田義男、そして野村克也が率いたタイガースは、4年連続でセ・リーグの最下位に沈んでいた。01年、即戦力として期待されて入団した赤星は、すぐにチームを包む澱んだ空気を肌で感じていた。球場のスタンドからは、「赤星、お前だけはこのチームに染まらないでくれよ」と、ファンからの声援を受けていたが、それは彼自身が痛切に感じていたことでもあった。

「こんなことを言うと、その当時いた先輩方に失礼ですけど、当時は、“そりゃ、勝てねぇよな、こんなチームじゃ……”という雰囲気でした。それは春のキャンプの段階からそうでした。“プロの世界って、この程度の練習量なの?”と感じると同時に、“これなら、普通にやっていれば大丈夫だな”と思えるぐらいでしたから」

全体練習が終われば、他球団ならば若手は順番待ちを余儀なくされるはずなのに、先輩たちは一目散に宿舎に戻っていくため、打撃マシンはすぐに空いた。シーズンが始まってからも、試合中盤で2点を追う展開、まだ反撃のチャンスは十分にあるはずなのに、先輩たちの口から出たのは、「ああ、もう今日はきついな……」という諦めの言葉ばかりだった。

「僕からしたら、“まだまだあと4回も攻撃を残しているじゃないですか、わずか2点じゃないですか”という思いですよ。この頃は、“このチームに染まってしまったら、自分の野球人生は終わってしまうぞ”という思いだったので、ファンの方の言うように、“この雰囲気に染まらないようにしよう”とずっと考えていました」

こうした澱みを一瞬で吹き飛ばしたのが星野だった。指揮官はチームの体質を厳しく見極め、戦う集団へと選手たちの意識を改革していく。その最大の象徴が、天才打者・今岡誠(現・真訪)の「大変化」であった。東都大学リーグ時代には、大学は違えど、2学年先輩である今岡を尊敬していた赤星にとって、「憧れでしかなかったすごい選手」である。しかし、野村体制下の今岡は完全にヤル気を失っており、赤星の目には「いちばんヤル気のない人」と映り、失望すら覚えていた。しかし、本連載においてすでに述べたように、星野はわずか1年で、今岡の眠っていた才能を完全に呼び覚ましたのである。

「あの今岡さんの本来の輝きを、わずか1年でそれ以上に取り戻させたのが星野さんでした。その姿を間近で見ていたので、ますます星野さんを尊敬するようになったし、僕自身も“星野さんの下でなら……”と、ヤル気が出てきました」

ゲッツーでも褒める星野の人心掌握術

02年シーズン、星野率いる新生タイガースは開幕ダッシュを決めた。開幕からしばらくの間は一番打者として起用されていた赤星だったが、シーズンの途中で怪我による長期離脱を経験し、今岡が完全復調したことをきっかけに、指揮官は赤星を二番打者へと転換させる。この打順変更が、若き韋駄天に新たな試練を与えることになった。二番に入ったことで、それまで一番のときにはほとんど求められなかったバントや進塁打といった、作戦面での「制約」が一気に増えたのである。

「二番になってからは、思った以上に制約がありました。バントをする機会が増えたり、進塁打を求められたりするケースが多くなりました。でも、僕はその期待にまったく応えることができなかったんです……」

バントがファウルになり、進塁打を狙ってもランナーとの兼ね合いで封殺される。チームのために犠牲を払う日々の中で、赤星のバッティングは少しずつ崩れていった。頭の整理ができぬままシーズンを終え、1年目よりも成績を落とした赤星は、契約更改の席で球団にその苦悩を訴えた。これに対し、星野は自著において「打順のせいにするな」と厳しい言葉を遺している。しかし、03年がスタートする際に星野は赤星に言った。

「今年はバントのサインは一切出さない。だから思い切って打て!」

その星野の言葉を、赤星が解説する。

「03年の開幕前に、“赤星、今年は二番でいくぞ”と言われました。今岡さんが一番で、僕が二番。そしてこの年から加わった金本(知憲)さんが三番。基本的にこの3人のラインは崩さないと聞きました。そしてこのとき、“今年はバントはしなくていい。最悪、ゲッツー崩れでランナーが入れ替わればいい”と言われたんです」

前年とは打って変わって「制約」もなく自由に打つ機会が増えた。本来であれば、より成績は上向くはずだった。しかし、予期せぬ事態が起こっていた。俊足を売りにしていた彼が、シーズン序盤から信じられないペースでダブルプレーを量産していたのである。当然、指揮官からの雷が落ちた。「お前、“ゲッツーは気にするな”と言っても、本当にゲッツーばかりを打つバカがおるか」と、手厳しい怒声が響く。だが、闘将の真骨頂はここからだった。

「でもな、それだけお前の打球が強くなっているってことだよ……」

星野は怒るだけで終わらせず、赤星の目を見つめて言葉を続けた。強い打球を打てるようになっているのは、バッティングの技術が上がっている証拠である。そんな言葉を投げかけたのだ。怒りの中に垣間見える、選手への絶対的な信頼とポジティブな評価。その言葉をかけられた瞬間、赤星の胸には言い知れぬ温かさが広がっていった。怒られながらも自らの成長を確信させてくれる指揮官の懐の深さに支えられ、韋駄天はさらにその輝きを増していくのである——。

後編に続く)

Profile/赤星憲広(あかほし・のりひろ)
1976年4月10日生まれ、愛知県出身。大府高校から亜細亜大学、JR東日本を経て、2000年ドラフト4位で阪神タイガースに入団し、新人王と盗塁王を獲得。02年に星野仙一監督が就任すると、翌03年には「二番・センター」として、61盗塁をマークして18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。プロ入りから5年連続で盗塁王に輝く活躍を見せるものの、09年に中心性脊髄損傷の大怪我を負い、同年に現役を引退。現在は野球評論家として活動する傍ら、少年野球の普及や車椅子の寄贈活動など多方面で活躍中。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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