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秀吉が光秀軍を破ったワケではなかった…新発見の書状から見える「実際に信長の仇を討った」MVP武将の名前

  • 2026.7.13

「豊臣兄弟!」(NHK)で信長(小栗旬)は明智光秀(要潤)に討たれた。系図研究者の菊地浩之さんは「通説では、本能寺の変の直後、中国地方にいた秀吉が驚くような速さで京都まで戻ってきたとされてきたが、実は秀吉は山崎の戦いには間に合わなかったようだ」という――。

新発見の秀吉書状で通説が覆った?

本能寺の変後、羽柴秀吉が明智光秀を山崎の合戦で破り、天下取りの一歩を踏み出した。

ところが、合戦の当日(6月13日)に羽柴秀吉が富田(大阪府高槻市)で書いたと思われる書状が発見され、「山崎の合戦に羽柴秀吉が遅参していた」という新説(馬部隆弘氏)が唱えられ、注目を集めている。

狩野随川筆「豊臣秀吉画像」名古屋市秀吉清正記念館蔵
狩野随川筆・豊臣秀吉の肖像画(名古屋市秀吉清正記念館所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

では、秀吉の代わりに光秀を山崎の合戦で破ったのは誰か? 『太閤記』によれば、山崎の合戦で光秀軍は1万6000兵、羽柴軍の内訳は下記という(『本能寺の変 山崎の戦』)。


羽柴秀吉 20000(2万)
池田恒興 5000
織田信孝 4000
丹羽長秀 3000
中川清秀 2500
高山右近 2000

信長の死後、秀吉が織田家中で主導権を取れたのは、弔い合戦ともいうべき山崎の合戦で、最大の軍勢を率いて勝利したからだと説明されてきた。しかし、実際は秀吉が間に合わなかったので、光秀軍を破った最大の功労者は、最も軍勢の多かった池田恒興つねおきということになる。

つまり、信長死後の政局動向は、池田恒興から見た視点が必要だと思うのだ。

山崎の戦いの立て役者は池田恒興か

池田勝三郎恒興(1536~1584)は、信長の乳兄弟(乳母の子)として、幼時から信秀・信長父子に仕えた(なお、その母親は後に信秀の子を産んでいる)。諱いみなを信輝とする書もあるが、信長と次男・輝政から創った偽名であろう。

信長にかわいがられ、信長の異母兄・織田秀俊が死去するとその未亡人との結婚を命じられた。未亡人は知多半島有数の国衆・荒尾家の出身で、この結婚により恒興は荒尾家を与力として、大きな軍勢を率いることが可能となった。

天正6(1578)年11月に摂津有岡城の荒木村重が謀反を起こすと、恒興は支城の花隈城を陥落させ、摂津を与えられる。天正10(1582)年5月に羽柴秀吉の中国遠征の援軍を命じられるが、同天正10年6月2日の本能寺の変で一転、6月13日の山崎の合戦に向かった。

山崎合戦之地の石碑
山崎合戦之地の石碑(写真=ブレイズマン/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
清須会議では重臣扱いになった

天正8年に信長が佐久間信盛を追放した時、折檻状の中で「一、丹波は明智光秀が平定し、天下に面白をほどこした。羽柴秀吉は数カ国で比類ない功績を上げた。また池田恒興は小禄ながら短期間で花熊(花隈)を攻略し、これも天下の称賛を得た」(『現代語訳 信長公記』)と述べている。

つまり、池田恒興は秀吉・光秀より一段下がる人物だと信長から評価されていたのだ。ところが、清須会議では柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉とともに「宿老」待遇で参加している。「秀吉遅参説」によれば、池田恒興こそ山崎の合戦で光秀を破った功労者だから、参加が認められたのだろう。

信長の後継者は恒興の血縁だった

従来の説では、信長の遺児である信雄・信孝が家督継承を争い、秀吉が信忠の遺児・三法師を擁立したといわれていたが、最新研究では信長の嫡孫・三法師の家督継承を前提に、その名代を誰にするか、信雄(信長次男)・信孝(信長三男)が清須会議で争ったという(『信長の血統』)。

「豊臣兄弟!」の大河ドラマ・ガイド(NHK出版)によれば、最新研究を反映し、三法師が家督を継承し、信雄・信孝が清須会議で名代を争うという構図になっている。

また、ドラマ・ガイドでは池田恒興が信孝を推しているが、それはありえないだろう。

恒興の長男・池田元助の妻は、三法師の母と姉妹なのだ。三法師が織田政権を継いだ場合、池田元助はその最側近となる可能性が高い。従来説では秀吉が三法師を擁立したことになっているが、本来ならば恒興が擁立したとしても不思議ではない。

つまり、恒興とすれば、三法師の邪魔をするヤツの芽を摘むことが重要であり、その最右翼が信孝なのだ。信孝は山崎の合戦に参陣しており、信長死後の織田政権では最も優位な立場にある。かれを名代にすれば、三法師の家督継承を邪魔する可能性が高い。だから、恒興は信孝を支持するとは考えがたい。

池田恒興の肖像画(模写、部分)、鳥取県立博物館所蔵
池田恒興の肖像画(模写、部分)、鳥取県立博物館所蔵(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
四男以下は後継者候補にならず

信長には11男11女がいたといわれている。長男の信忠は本能寺の変で死去。次男・信雄(清須会議の時に満24歳)、三男・信孝(24歳)は清須会議で名代争いをしていた。

清洲会議が行われた清洲城の現在の姿(復元)、愛知県
清須会議が行われた清洲城の現在の姿(復元)、愛知県(写真=baggio4ever/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

四男・津田信房(一般には武田勝長。17歳)は池田恒興の婿養子になっており、恒興としては信房を擁立したいはずだが、不幸にして本能寺の変で討ち死にしている。

五男・羽柴於次おつぎ秀勝(14歳)は周知の通り、羽柴秀吉の養子である。三法師擁立説で、みんなすっかり忘れてしまっているが、秀吉以外の宿老が一番警戒していたのは秀勝の擁立だったのではないか。ただ、秀吉自身にその気がなかったようだ。

六男は生没年不詳、七男は9歳で、それ以降の幼児は考慮されなかったようだ。

恒興三男は秀吉の養子だったが…

実は、恒興は秀吉とも姻戚関係がある。恒興の三男・池田藤三郎長吉が本能寺の変の前年の天正9(1581)年に羽柴秀吉の養子になっているのだ(秀吉が天下を取ると池田姓に復して1万石の大名に取り立てられる。だが、関ヶ原の合戦では兄・輝政に従って徳川方につき、因幡鳥取藩6万石を与えられた)。

当時、秀吉と恒興は非常に似た境遇に置かれていた。養子に迎えた信長の実子(秀勝、信房)に居城(長浜城、犬山城)を預け、西国(播磨、摂津)に新たな拠点を築きつつあった。秀吉とすれば、次世代のエース・元助を抱える池田家と関係強化を図りたかったのだろう。しかも、新拠点は隣国同士である。

さらに本能寺の変後、秀吉は「中国の大返し」で姫路に戻り、恒興と光秀討伐について会談すると、「豊臣秀次をもって信輝(恒興)が聟むことし、二男輝政を太閤(秀吉)の養子となすべしと契約」(『寛政重修諸家譜』)したという。輝政の養子話は立ち消えになったようだが、恒興の次女と秀次の縁談は実現している。

清須会議で恒興と秀吉はほぼ利害が一致していたように感じられ、姻戚関係はそれを強化するのに役立ったのだろう。

清洲会議で三法師を担ぎ上げた秀吉、『絵本太閤記』より、江戸時代(日本城郭資料館所蔵)
清須会議で三法師を担ぎ上げた秀吉、『絵本太閤記』より、江戸時代(日本城郭資料館所蔵)(写真=投稿者ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)
秀吉&恒興のタッグは続く

清須会議の4カ月後、天正10年10月、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興は京都で会談し、織田信雄を名代につけた。これに織田信孝と柴田勝家が反発。天正10年12月、秀吉は勝家の養子・柴田勝豊、織田信孝を相次いで降した。翌天正11年4月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家は自害、のちに織田信孝も自害させられた。

池田恒興は賤ヶ岳の合戦に参陣しなかったようだが、天正11年5月に美濃が与えられ、清須会議後に与えられていた大坂を秀吉に譲った。秀吉は大坂城を建築しはじめる。一方、恒興は長男の池田元助を岐阜城に据えた。岐阜城は織田政権にとって特別な地である。そこに三法師の義叔父である元助を置いたことは、感慨深いものがあったに違いない。

信孝の死によって、織田信雄は織田家の後継者としての地位を一歩進めた。そして、目障りとなった秀吉との対立姿勢を強めていく。

対家康戦、小牧・長久手では…

天正12年3月、信雄は秀吉に通じているとして家老3人を殺害。徳川家康が信雄と結ぶと、秀吉も出兵(小牧・長久手の合戦)。ここで、織田家旧臣の動向が懸念されたが、池田恒興は秀吉側に着いた。これも恒興から見れば当然の措置である。信雄の擡頭たいとうは、将来あるべき三法師政権の阻害要因になりかねないからだ。

両陣営は尾張(愛知県西部)で対峙したが、合戦は早々と膠着こうちゃく状態に入った。秀吉は三河(愛知県東部)に侵入して、家康方の岡崎城を陥落させようと発案。羽柴秀次を大将として、池田恒興・元助父子、恒興の女婿・森長可ながよし(蘭丸の兄)等、2万の大軍を「密かに」差し向けた。しかし、野戦巧者の家康に見抜かれて逆襲に遭い、池田恒興・元助・森長可は討ち死にを遂げた。三法師の真の後援者が軒並み亡くなった瞬間であった。

「小牧長久手合戦図屏風」一隻
「小牧長久手合戦図屏風」一隻(豊田市郷土資料館所蔵)(写真=『新修豊田市史 別編 美術・工芸』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
息子が関ヶ原で東軍になったワケ

恒興の次男・池田三左衛門輝政は、江戸時代に姫路城を築いたことで知られる。なぜ輝政が姫路という要衝を任されたのかといえば、関ヶ原の合戦で家康方につき、勝利に貢献したからである。それ以上に大きかったのが、家康の女婿だったということだ。

輝政ははじめ中川清秀の娘を妻にしていた。長男・池田利隆が天正12年9月生まれなので、山崎の合戦の後に縁談が進んだのではないか。荒木村重の謀反を鎮圧した後、恒興は支城の掃討作戦を任された。中川は村重の家臣で、村重の謀反には加わらず、信長に付いた。また、山崎の合戦では、先陣を任されたという。

しかし、妻は出産後に病を得て実家・中川家に戻り、離婚を余儀なくされる。

ここで、気配りの人・秀吉は、輝政の父・恒興を討った徳川家康との仲を取り持つべく、家康の次女・督姫とくひめと輝政の再婚を斡旋した。そのおかげで、輝政はすっかり徳川家寄りの部将になってしまい、関ヶ原の合戦で大活躍をして豊臣家の没落に一枚加わったのだから世の中わからない。

【図表】池田恒興と豊臣秀吉・織田信長の関係
筆者作成

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。

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